2009年1月12日月曜日

還暦に思う

・じぶんが還暦を迎えたという実感は全然ない。けれども、60歳という年齢になったのは事実で、少し前に、年金の手続をする書類の入った封筒が私学共済からやってきた。もちろん、年金生活を始めるのはまだ先のことで、生活自体に特別な変化があるわけではない。けれども、もうずいぶん長く生きてきたことを自覚させられる機会であることを実感した。

・60年は確かに長い。けれども、今まで生きてきた道筋をふり返っても、たとえば30年ほど前のことが、つい昨日のことのように思い出せたりする。先日も、30歳になった息子が、子どもの頃に叱られてばかりでほめられちゃことがなかったと言った。するとその情景が鮮明に甦って、なぜそうだったのかを説明し、腹を抱えて笑いながらも、時に真顔になって言い合ってしまった。

・記憶は時の経過に沿って正確に記録されているわけではない。つい数年前のことでも、ずいぶん昔のように感じることはあるし、何十年前のことでも、古さを感じないこともある。もちろん、それは人それぞれだ。だから、同じことを経験しているのに、じぶんだけ鮮明に覚えていたり、逆にじぶんだけほとんど覚えていなかったりすることがある。で、話をするうちに、記憶の戸棚の奥深くにしまい込まれていたものに気づいたりもする。もちろん、思いだされたことに対する解釈や評価もまた、人それぞれだ。二人の息子と昔話をして、一つの経験が互いの立場によって、ずいぶん違うものとして記憶されていることを実感した。

・学生が書く卒論には、当然、テーマによってそれぞれ、僕が生きた時代のことにふれる歴史の部分がある。本を数冊見つけて、それを引用しながらまとめるのだが、読んで違和感をもつことが少なくない。どんな歴史も、誰が、どこから、何を視点や中心にして読みとり、再現したかによってずいぶん違ったものになる。ところが、一つの見方が一般的になると、それがフィルターの役割をして、歪んだ像が現実そのものであるかのように定着し始めてしまう。その典型は、無数に出た「団塊論」だし、レトロな風景として再現される昭和の風景だろう。

tokyounder.jpg ・ロバート・ホワイティングの『東京アンダーワールド』(角川文庫)には、僕とは全く無縁な戦後の日本の歴史が展開されている。進駐軍とそれに寄生してビジネスを企むアメリカ人、あるいは、CIA。他方で時にはそれらに対立し、また協力もし合うヤクザ、警察、そして政治家たちの生々しい話。舞台は主に、赤坂や六本木、あるいは銀座になっている。表には出てこない歴史だが、戦後の日本の進路に大きな影響を与えた人や出来事の物語であることはよくわかる。有名人の表とはずいぶん違う裏の顔、闇市から成り上がった実業家や政治家、あるいは一流レストランのいかがわしい成り立ち方など、戦後のどさくさから経済成長という過程に特有のものにも思えるが、こんな一面は、現在の日本にも確実にあるはずだ。

・一つの時代を共に生きたということ、一つの時代感覚を共有したということが、あまりに安易に了解されすぎる。それを先導し、増幅させて、事実のようにしてしまうのがテレビの常套手段だ。テレビの歴史は街頭テレビの力道山から始まるのがお決まりだ。その力道山の素顔がどんなものだったのか、『東京アンダーワールド』には、その行状がひんぱんに登場する。現実には表で目立ったものと裏に隠れたものがある。強調されるものと無視されるものがあり、一つ一つに対する解釈もまた、その多様性は無視されて、一つのわかりやすいものがひとり歩きをする。僕の生きた60年は、テレビが生まれて、その力を強大にした時代と重なりあう。だからといって、じぶんの歴史を、テレビというフィルターを通して見る必要はない。それは現実認識でも、もちろん、変わらない。

2009年1月5日月曜日

スポーツの値段

・大不況の波はプロ・スポーツにも押しよせていて、野球やサッカーの有名チームの身売り話が報道されている。イングランドのプレミア・リーグ全体での負債額は30億ポンド(4000億円)に達するという。元はといえば、ロシアやアイスランド、アメリカ、そしてタイから入りこんだ巨額の投資や買収が原因だ。潤沢な資金を力に世界中から選手を集めて強くなれば、当然人気も出る。朝日新聞によれば、リーグの放映権は1992年から07年までの15 年間に15倍に達し、全クラブの総収入も10倍近くになったようだ。

・スター選手の報酬もそれに比例して高騰したが、それはチケットにも跳ね返ったから、今では安い席でも40ポンドもするという。もうとっくに、労働者階級の娯楽スポーツではなくなっていて、チケットの買えないファンはパブでテレビ観戦するしかないようだ。これはもちろん、イタリアやスペインでも変わらない。しかも、その高額なチケットが極めて手に入りにくいというから、観客層に一大変化が生じたのは明らかだろう。だから、プレミア・リーグにとっては危機かもしれないが、いったい誰のため、何のためのスポーツなのかを考え直すにはいい機会なのだと思う。ちなみに、クラブ世界一決定戦で優勝したマンチェスター・ユナイティッドは1880年に鉄道労働者たちが作ったクラブとして始まっているのである。その労働者たちのチームという特徴が崩れたのは、ここ10年ほどのことだ。

・同じことははメジャー・リーグにも言える。ヤンキースの去年の総年俸は2億2200万ドルを超えたそうだ。全30球団では28億8000 万ドルで、福留も黒田も最初から1000万ドルを超える額で複数年契約をした。ビッグ・ネームの選手は10年前後で億単位のドルを手にする契約をしているから、一流選手になれば文字通りの億万長者になれるというわけである。ちなみにイチローは2008年度から5年の契約で9000万ドルを得ることになっている。1年あたりでは1800万ドルで、彼は去年213本のヒットを打ったから、1本あたりの単価は8.5万ドルということになる。これは現在のレートで言えば、800万円にもなる額である。日本人の平均年収を大きく上まわる額をたった1本のヒットで稼ぐという現状は、すごいと言って感心するどころの額ではない気がする。

・もちろん、選手がこれだけの報酬を得るのは、それを払うだけの収入がチームにあるということだ。チケットの高額化、テレビ放映料、広告料、ユニホームのレプリカなどのさまざまなグッズがもたらすお金は莫大なものになってる。しかし、スター選手と高額で長期間の契約ができるのは、現在までの隆盛が、これからもずっと続くことが自明視されてきたからだ。想定外の経済の急激な落ち込みは、当然、チームの収入を激減させる。第一に、野球にしてもサッカーにしても、オーナーには投資によって財力を蓄えたり、石油で大儲けした人が少なくない。観客が減少してスタンドは閑古鳥でテレビ視聴率も上がらない。そんなチームが負債を抱えて倒産、あるいは安値でたたき売りといった状況が、もうすぐ現実化してもおかしくないのである。

・能力がそれなりにお金で評価されるシステムそのものに反対はしない。けれども、ヒット1本打つたびに何百万円、1勝するたびに何千万円、ゴール・キックを一つ蹴るたびに数億円と考えたら、働くことにばからしさを感じない方がおかしいというものである。労働の価値にそれほどの差はないこと、その差が多くの貧困の上に成り立っていることなど、経済不況がもたらす認識には、大事なものが少なくないように思う。

・もっとも、アメリカ人がこういう感覚に疎いのは、破産寸前のGMやフォードのCEOがメジャー・リーグのスーパースター並みの報酬を今でも得ていることをみてもわかる。だから、それに比べたら日本のプロ・スポーツ選手や企業の経営者のもらう報酬はまっとうな額だということができるかもしれない。けれども、一方で年収が百万円たらずの派遣社員がいて、不景気だからといって真っ先に解雇してしまう大企業の姿勢には、社会的責任の欠如はもちろん、ふつうの人間がもつ常識のかけらすらなく思えてしまう。

2008年12月30日火曜日

目次 2008年

12月

31日:目次

29日:今年の聴きおさめ

22日:Happy X'mas!

15日:高尾山を歩いた

8日:ドラッグを考える本

1日:富士山ナンバーに変えた

11月

25日:謝罪と責任

17日:テレビの調子がおかしい

10日:続・新譜あれこれ

3日:田舎暮らしの2冊の本

10月

27日:迷惑電話とスパム・メール

20日:ポール・ラファルグ『怠ける権利』ほか

13日:20万キロ越えに感謝

6日:新宿・風月堂

9月

29日:紙ジャケの誘惑

22日:箱根を歩いた

15日:自転車に乗って

10日:再録「キャンパスブログ」4〜5

7日:再録「キャンパスブログ」1〜3

1日:学生の出した本

8月

25日:フリーターは自由ではない

18日:国家とメディアと企業の五輪

11日:「自然」を心地よく味わうために

4日:伊豆で素潜り体験

7月

28日:新譜あれこれ

21日:拝啓、野茂英雄さま

14日:学生気質が変わった?

7日:バウマン『コミュニティ』ほか

6月

30日:ジャニス・ジョプリンの孤独

23日:ガソリンと灯油の節約

16日:エコ、その啓蒙とビジネス

9日:K's工房個展案内

2日:模索舎と有機本業

5月

26日:うわっ、大講義

19日:チャールズ・テイラー『<ほんもの>という倫理』

12日:ベテラン健在というアルバム

5日:冬の片づけと来冬の準備

4月

28日:A LOVE SONG FOR BOBBY LONG

21日:税金のかけ方、使い方

14日:朝日新聞「キャンパスブログ

7日:田村紀雄『海外の日本語メディア

3月

31日:ハスキーな声、2人

24日:わかりやすい季節変化

17日:謝罪と感謝

10日:ロンドン、パリ、そしてブルターニュ

3日:飛行機の映画、ホテルのテレビ

2月

25日:パリからの手紙

18日:ベンヤミンの『パッサージュ論』

11日:今年の卒論・修論

4日:声の肌理

1月

28日:久々の雪景色

21日:我が家の食べもの

14日:硫黄島の2部作

7日:走ることについて語ったこと、について

2008年12月29日月曜日

今年の聴きおさめ

 

davemason2.jpg・今年も50枚ほどのCDを買った。去年の暮れのこのコラムを読むと、復刻版が多くて、新しいものが少なかったと書いてある。ディランをモデルにした"I'm not there"、自分にとって思い出深い曲をカバーしたパティ・スミスの"twelve"。ジョニ・ミッチェルへのトリビュートやジョン・ケールやジェームズ・テイラーのライブ版、それにニール・ヤングの伝説のライブなどなど………。
・それでは今年はどうだったか。これはあくまで個人的なことだが、新しいミュージシャンとの出会いがいくつもあった。レイ・ラモンターニュ、ジェームズ・モリソン、グレイソン・ギャップス、ジェームズ・ブラント。エイモス・リー、さらに、デイブ・メイソン、J.D.サウザーなど、忘れていた人の復活もあって、あたらしいだけでなく、古いアルバムを買ったりもした。

eno&byrne.jpg・もうおなじみで、アルバムが出れば買ってしまう人たちが、続々新しいものを出した年でもあった。ボブ・ディランの"Tell Tale Signs"、ブルース・スプリングスティーンの"Magic"、ヴァン・モリソンの"Keep It Simple"、ジャクソン・ブラウンの"Time The Conqueror"、R.E.M.の"Accelerate"、エミルー・ハリスの"All I Intended To Be"、アラニス・モリセットの"Flavors Of Entanglement"、マドンナの"Hard Candy"、シェリル・クロウの"Detours"、一番最近買ったのはデビッド・バーンがブライアン・イーノと共作した"Everything That Happens Will Happen Today"だ。もう、こういった人たちには、聴いてがっかりといった駄作はない。

travis5.jpg ・比較的若いミュージシャンの新作も多かった。去年出したばかりのトラビスが出した"Ode To J. Smith"とスノウ・パトロールの"A Hundred Million Suns"、それにジェイコブ・ディランがソロで出した"Seeing Things"は力作揃いでどれも聴きごたえがある。対照的に、話題になったコールド・プレイの"Viva La Vida"は、もう結構という感じだった。同じような印象を受けたのはエンヤの"And Winter Came..."。いかにもクリスマスに合わせて出しましたという感じだが、「きよしこの夜」以外には、古いものと区別がつかないほどのマンネリぶりだ。

snowpatrol2.jpg ・CDの売れ行きはさっぱりのようで、とりわけ洋楽はひどいらしい。大学生を見渡しても、洋楽好きはめったにお目にかかれないほどだから、意外な感じは受けないが、ごく一部のミュージシャンのコンサートだけは活況だという。映画も洋画よりは邦画に注目が集まっている。内容が充実しているというなら理解できるが、果たしてどうなのだろうか。良質な小品を上映してきたミニシアターがどこも存続の危機に瀕しているといったニュースも目にした。内向きで、みんなと一緒といった発想の結果だとしたら、文化的な貧困としか言いようがないのかもしれない。ちなみに、僕が今年買った日本人のアルバムは、一枚もない。

2008年12月22日月曜日

Happy Xmas!!


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クリスマスなど祝うどころではない
今年はそんな年末を迎えています
大恐慌以来の大不況がやってくる
不安が増幅されて
日本を代表する企業がパニックに陥ってます
生き残りのためにはと
派遣という名の低賃金労働者を切り捨てて
路頭に迷わすことに、何らのやましさも感じない
一方で役員報酬は億単位だったりしますから
社会的責任の欠如にはあきれるばかりです

自動車の生産台数が30年前の水準にもどったと言われています
だから危機感も尋常ではないのですが
環境問題の視点からみれば
これはいいチャンスでもあるのです
ガソリンや灯油の異常な値上がりと思ったら、あっという間の大暴落
で、安くなっても、需要は元にはもどらない
湯水のように使うのをやめて、ちょっと自覚的になる
そんな意識が現実の行動にちょっとあらわれただけで
供給過剰でだぶついてしまう

だから、この苦境を乗り越えるのは
落ちこんだ消費の拡大にではなく
個人や社会の生き方の見直しからはじめるべきなのです
いつでも、どこでも、何でも、だれでも、手軽に、気楽に、便利にではなく
生きることを手間暇かけて、もっと楽しく、おいしく味わう
そのための模索には
お金もモノも必要ないでしょう


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2008年12月14日日曜日

高尾山を歩いた

 


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・河口湖周辺の紅葉はとっくに終わったが、東京周辺は今が真っ盛りで、通勤途中の高尾山周辺もきれいに色づいている。高速道路を運転しながら、そんな風景を横目にしているうちに、登ってみたくなった。4年生の卒論も何とか提出されて、一仕事片づいたところだし、翻訳も何とか完成した。師走になって、今年ももう残りわずか。自転車には乗っているが、気づいたら、夏以来どこも歩いていないphoto49-10.jpg
photo49-2.jpgphoto49-3.jpg"
photo49-5.jpg・高速を相模湖インターで降りて大垂水峠にさしかかると「美女谷温泉」の標識が目に入った。高速に乗っていていつも気になったところで、ちょっと寄り道することにした。高速の小仏トンネル手前の大きな橋の下にある小さな一軒だけの湯治場だった。 ・高尾山には登山ルートがいくつもある。川沿いを上る「びわ滝コース)を選んだが、平日にもかかわらず、大勢の人で、しかも高齢者ばかりでびっくりした。
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・頂上に着くとケーブルで上がってきた人もいて、その数は一層増えた。TVのCMを撮影していたり、ちょうど昼時だったから、お弁当を食べる場所捜しも苦労するはずだった。ミシュランのお勧め場所になったせいか、外国人の姿も目についた。 ・薄くもやがかかって都心のビル街も富士山も見えなかったが、ハイキングコースとしては手軽で、時期もよかったのかもしれない。photo49-8.jpg
photo49-9.jpg・帰りのコースからは中央高速がよく見えた。圏央道とのジャンクションを間近に見るあたりには吊り橋もあって、なかなかよく整備されていた。今ちょうどこの下で高速道路のトンネルを掘っていて、反対運動をして水量を調べる人に出会った。 あちこちとうろうろしたから、5時間ほどかかって下まで降りた。で、歩いたコースを高速道路から推測しながら帰った。便利さを追求しながら、自然の良さをうまく残す。高尾山はそんなモデルケースのような場所だとつくづく思った。

2008年12月8日月曜日

ドラッグを考える本

 

佐藤哲彦『ドラッグの社会学』(世界思想社)

・大麻は幻覚作用をもたらす植物で、日本でも各地で自生しているものだ。茎は布として古くから加工されてきたし、種は七味唐辛子の一種でもある。麻布や当麻などと地名にも多くつかわれていて、人びとにとって極めて身近にある植物だった。当然、その葉に特殊な作用があることも、知られていたはずである。そのような植物の葉、そして種を所持したり、栽培したりすることが、とんでもない犯罪であるかのように扱われる。で、その理由も極めて一方的なものだ。そして新聞やテレビには、騒ぎを増幅させ、危険を煽ることはあっても、ことの真偽を問う冷静で批判的な視点はほとんどない。

book123-1.jpg・佐藤哲彦の『ドラッグの社会学』を読むと、ドラッグに対する規制が歴史的に、外からやってきた侵入者と合わせて扱われてきたことがよくわかる。つまり、アメリカではアヘンは中国人、大麻はメキシコ人、そしてコカインは南部の黒人たちとつながりの強いものとして考えられてきた。だからドラッグの禁止はよそから入りこんできた異物としての人間たちが与える悪影響を象徴するものと見なされてきた。ドラッグそのものがもたらす影響や害以上に、悪いものとして意味づけられてきた理由のいったんが、このような過程の中にある。

・現在の法律でドラッグが禁止される一番の根拠は、それが健康に害を与えるものだというところにある。健康的な生活をおくることが国民の基本的な権利であり、国家にはそれを守る義務があることからすれば、これはもっともな主張のように思える。しかし、それだけでは、ドラッグの所持や使用が重大な犯罪だとする理由は説得力をもたない。別の理由は、ドラッグが暴力団などの闇の資金供給源になっていること、中毒や幻覚作用が他の犯罪の原因になることなどがあげられる。しかし、こと大麻に関しては、健康も、闇の資金も、他の犯罪の原因も、必ずしも確かなものではない。

・だから、ヨーロッパの多くの国では、大麻の所持や使用は、罪に問われないか、せいぜい交通違反程度の罰金刑として扱われている。その理由は、「犯罪」というラベルを貼ることで生じる社会的な制裁や排除が、所持者や使用者をさらに社会的に見えにくいところに追いやってしまうとするところにある。つまり、非合法なドラッグが追放しきれないものであるならば、その「リスク」を制限するために、比較的軽い大麻は処罰の対象から外そうという考え方なのである。

・『ドラッグの社会学』には、このような国の政策についての考察の他に、ドラッグ使用者へのインタビューから得られた特徴が興味深い視点で分析されている。著者によれば、ドラッグの常用者の多くもまた、自らの健康や社会的な人間であることを強く自覚しているということだ。つまり、仕事に差しつかえないように、体をこわさないように自己管理をしているという発言が極めて多いという指摘である。ここには、軽い大麻から入って次第に強いものに行き、やがて耽溺して廃人になるという、取り締まる側、それを支持する人たちの主張とはずいぶん異なる実情が見えるのである。

・この本を読むと、最近の大麻の取り締まり方とメディアでの取り上げ方が、その使用者や流通ルートを闇に追いやる結果を引きおこすこと、摘発された若者たちが犯罪者として社会から強く排除されてしまうこと、そのためにかえって、より強力なドラッグの蔓延を招きかねないこと、闇のルートが暴力団に資金源を提供してしまうことなど、マイナスの側面ばかりが懸念されてしまう。

・ところで、そもそもドラッグは、悪を前提にしてしか捉えられない対象だったのだろうか。『ドラッグの社会学』が最後に問うのは、この問題で、強く取り締まって根絶を狙うのはもちろん、表に出して管理するという政策にも、ドラッグの社会に与える影響を軽減、あるいは無害化しようとする姿勢がある。しかし、ドラッグには現実の社会を強く相対化して批判的に見つめなおす視点を提供したり、あたらしい世界をイメージさせたりする力もあって、その力が認められてきた歴史もさまざまに存在する。取り締まる側にはもちろん、使用する人たちにも、おそらくこの点はほとんど忘れられた側面である。