・ピーター・バラカンは来日して35年になるイギリス人で、ラジオやテレビでキャスターをやり、ポピュラー音楽についての評論もしている。僕は彼の音楽評についても以前から信用していて、新しいアルバムやミュージシャンを見つける参考にしてきた。日本を好み、うまく適応して、長く滞在している人だけに、日本人や日本文化に対する見方には、これまでにも納得できるものが多かった。
・彼がこの記事で指摘しているのは「グローバル化」が叫ばれる風潮と、それとは対照的に、ますます閉じて行く傾向で、そのことを人間関係やコミュニケーションに注目して発言している。
・たとえば、日本語では外来語をカタカナで表記する。明治以来の慣習だが、それは原語の発音にはほど遠いものであることが少なくない。「マネー」は「マニ」、「モンキー」は「マンキ」と表記すべきなのだが、けっしてそうはならない。しかもそのことを彼が指摘しても、「一度決めたことだから変えられない」「日本人にはこの方がわかりやすい」、さらには「日本人同士でわかるのだから、どこが悪い」と言われてしまうようだ。
・他方で、そんなおかしな発音の外来語がやたらに氾濫しているのも、最近の顕著な傾向だろう。彼は「復讐」ではなく「リベンジ」である必要があるのだろうかと言う。大学生の英語力が低下しているのは明らかだが、彼や彼女たちが好んで聴くJPopの歌には英語の題名が多いし、歌詞の中にもさして意味もない英語が登場することが少なくない。しかも、それはやっぱりカタカナ英語に近いものだ。
・彼は、そんないい加減な発音やアクセントの英語を小学生から教えられたら、一生おかしな英語を使い続けるほかはないと言う。大事なことは、まず、外はもちろん、身の回りにある異文化に対する態度から見つめ直すことにある。実際、内向きで他人に同調すること、言わなくてもわかるよう互いに「空気」に敏感になることといった古いつきあいの感覚は、若い人たちのなかにも、何より大事な暗黙のルールとして染みついている。仲間内でわかればいい。この発想を変えなければ、いくら英語教育に力を入れても、しようがないのである。
・ケータイ文化が特殊に発展したことをさして「ガラパゴス化」と言われたりもしているが、そんな特殊性はケータイに限るものではない。外から入ってきたものをカタカナ英語同様に、独自に変形させて、日本の中だけで通用するものにする。それは文化全般に見られる特徴である。バラカンはそんな特殊性を、ネットにおける匿名の発言に見ている。
・直接目の前にした相手とのやりとりでは、言いたいことを言えないくせに、匿名ならどんな暴言もかまわない。それはコミュニケーションとして「対話」や「議論」を基本にする彼の感覚からは異様に思える人間関係のようだ。しかし、多くの日本人には、それが特殊なものだとは自覚されていない。けれども、グローバル化が必然化するこれからの社会では、そんな特殊なやり方だけでは仕事も生活も成り立たなくなる。イギリスからやってきて日本に長く滞在している人の忠告だけに、無視してはいけないことばだと思う。