・村上春樹の作品はほとんど読んでいる。しかし、小説に比べてエッセイはおもしろくない。そんな印象を持っていたから、期待しなかったのだが、『走ることについて、語るときに、ぼくの語ること』(文藝春秋)はおもしろかった。ぼくは走らないから、マラソンやトライアスロンそのものについて語っているところは、どうでもいい。ぼくが興味をもったのは、走ることを中心にしながら、じぶんのこれまでの道筋をたどり、じぶんの性格や信条について、彼が語っているところだ。
・その素顔と思える一面に接して、まず感じたのは「何とストイックな人なんだろう!」ということだ。小説を書くことに専念するために喫茶店を閉じたら、途端に太り始めてきた。走りはじめたのはそれがきっかけで、『羊の冒険』を書いた後だというから、もう25年以上も走り続けていることになる。その持続力もたいしたものだが、絶えずじぶんに課題や目標を与えて、そのための努力を怠らない、その生真面目さ、勤勉さは、彼の小説から受ける印象とはずいぶん違う感じがした。
・ところが村上は、走ることと書くことを、ほとんど同じスタンスでとらえている。たとえば、次のような語りがある。
誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。………中略………腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。
・つまり、村上春樹にとって書く作業は走ることと同じだ。誰に言われたわけでもなく、じぶんで決めて、目標を設定して、できるだけその通りにこなしていく。もちろん、マラソンを走れば競争心も湧くし、小説家としては作品の評判も気になる。しかし、そこで感じた悔しさや腹立ち、あるいは寂しさは、他者にではなく、じぶんに向かう。彼にとって大事なのは、じぶんで決めた目標に対する達成の度合いであって、他者からのものではないからだ。
・村上ワールドに長年親しんできた感じから言えば、村上春樹の想像力は天才的なものだという気がしていた。しかし、この本を読むと、彼はむしろじぶんを不器用の人間として理解していて、いつでも努力して精進しなければ、納得できる仕事はできないと考えている。中年をすぎて、ランニングするじぶんに体力の衰えを感じているように、作家としての想像力も、放っておけば枯れてしまうと自覚している。そうならないための走りであり、翻訳作業であるというわけだ。
・とは言っても、走ることはけっして、作家としての資質を維持するための手段ではない。走ることはそれ自体、じぶんの中に大きな存在感を持っている。走りながら何かを考えるわけではない。インスピレーションを求めているわけではない。それはむしろ「ホームメードのこぢんまりした空白」や「懐かしい沈黙」を作りだす。そこにじぶんを置き、その時間や空間や行為と戯れる。この感覚は僕にもよくわかる。ただし、そこに苦しさがともなうのは、ぼくはごめんだが………
・木工を始めたら、頭は考えることを休止する。自転車に乗る、カヤックを漕ぐ、薪割りをする。あるいはトレッキングをする。いつでもそれは、空白の時間で、しかも無駄なことをしたなどと感じないひとときだ。もちろん、癒しなどとは違うし、リクリエーションでもない。何が目的で何が手段か、それは一概に言えることではないのである。
・僕もじぶんの才能のなさをくりかえし自覚してきた。しかも、歳を重ねるとともに、わずかにあった想像力さえ枯れてしまってきている。だからこそ、日頃の鍛錬と、持続する意志を怠らないことが大事だ、とつくづく思う。あるいは、じぶんを判断するのは、他人ではなく、自分なのだということも、僕にとっては基本的な基準として、ありつづけてきた。その意味では、この本で彼が書いていることには、共感できる部分がたくさんある。
・ただし、ぼくは、村上春樹が作家という仕事にもっているような天職的な意味を感じてはいない。ぼちぼち仕事をやめて、無為に生きたい、と考え始めている。大学の職に就いているからなのだが、それを辞めても、僕は書くことをつづけたいと思うだろうか。そうだと言える自信は、今のところほとんどない。この本を読んで、村上春樹が求道者のように思えてきた。
・P.S.野茂がカンサスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。ヴェネズエラのリーグで投げていて、メジャー・リーグへのカムバックを期していることは知っていたから、ホッとした。先発ローテーションへのサバイバル・レースがもうすぐ始まる。持続する志。すごい人がもう一人いた。