2008年1月7日月曜日

走ることについて語ったこと、について

 

murakami.jpg・村上春樹の作品はほとんど読んでいる。しかし、小説に比べてエッセイはおもしろくない。そんな印象を持っていたから、期待しなかったのだが、『走ることについて、語るときに、ぼくの語ること』(文藝春秋)はおもしろかった。ぼくは走らないから、マラソンやトライアスロンそのものについて語っているところは、どうでもいい。ぼくが興味をもったのは、走ることを中心にしながら、じぶんのこれまでの道筋をたどり、じぶんの性格や信条について、彼が語っているところだ。
・その素顔と思える一面に接して、まず感じたのは「何とストイックな人なんだろう!」ということだ。小説を書くことに専念するために喫茶店を閉じたら、途端に太り始めてきた。走りはじめたのはそれがきっかけで、『羊の冒険』を書いた後だというから、もう25年以上も走り続けていることになる。その持続力もたいしたものだが、絶えずじぶんに課題や目標を与えて、そのための努力を怠らない、その生真面目さ、勤勉さは、彼の小説から受ける印象とはずいぶん違う感じがした。
・ところが村上は、走ることと書くことを、ほとんど同じスタンスでとらえている。たとえば、次のような語りがある。


 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。………中略………腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。

・つまり、村上春樹にとって書く作業は走ることと同じだ。誰に言われたわけでもなく、じぶんで決めて、目標を設定して、できるだけその通りにこなしていく。もちろん、マラソンを走れば競争心も湧くし、小説家としては作品の評判も気になる。しかし、そこで感じた悔しさや腹立ち、あるいは寂しさは、他者にではなく、じぶんに向かう。彼にとって大事なのは、じぶんで決めた目標に対する達成の度合いであって、他者からのものではないからだ。
・村上ワールドに長年親しんできた感じから言えば、村上春樹の想像力は天才的なものだという気がしていた。しかし、この本を読むと、彼はむしろじぶんを不器用の人間として理解していて、いつでも努力して精進しなければ、納得できる仕事はできないと考えている。中年をすぎて、ランニングするじぶんに体力の衰えを感じているように、作家としての想像力も、放っておけば枯れてしまうと自覚している。そうならないための走りであり、翻訳作業であるというわけだ。

・とは言っても、走ることはけっして、作家としての資質を維持するための手段ではない。走ることはそれ自体、じぶんの中に大きな存在感を持っている。走りながら何かを考えるわけではない。インスピレーションを求めているわけではない。それはむしろ「ホームメードのこぢんまりした空白」や「懐かしい沈黙」を作りだす。そこにじぶんを置き、その時間や空間や行為と戯れる。この感覚は僕にもよくわかる。ただし、そこに苦しさがともなうのは、ぼくはごめんだが………
・木工を始めたら、頭は考えることを休止する。自転車に乗る、カヤックを漕ぐ、薪割りをする。あるいはトレッキングをする。いつでもそれは、空白の時間で、しかも無駄なことをしたなどと感じないひとときだ。もちろん、癒しなどとは違うし、リクリエーションでもない。何が目的で何が手段か、それは一概に言えることではないのである。

・僕もじぶんの才能のなさをくりかえし自覚してきた。しかも、歳を重ねるとともに、わずかにあった想像力さえ枯れてしまってきている。だからこそ、日頃の鍛錬と、持続する意志を怠らないことが大事だ、とつくづく思う。あるいは、じぶんを判断するのは、他人ではなく、自分なのだということも、僕にとっては基本的な基準として、ありつづけてきた。その意味では、この本で彼が書いていることには、共感できる部分がたくさんある。
・ただし、ぼくは、村上春樹が作家という仕事にもっているような天職的な意味を感じてはいない。ぼちぼち仕事をやめて、無為に生きたい、と考え始めている。大学の職に就いているからなのだが、それを辞めても、僕は書くことをつづけたいと思うだろうか。そうだと言える自信は、今のところほとんどない。この本を読んで、村上春樹が求道者のように思えてきた。

・P.S.野茂がカンサスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。ヴェネズエラのリーグで投げていて、メジャー・リーグへのカムバックを期していることは知っていたから、ホッとした。先発ローテーションへのサバイバル・レースがもうすぐ始まる。持続する志。すごい人がもう一人いた。

2008年1月1日火曜日

謹賀新年

 

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少し、いや、かなり寒いけど
のどかな正月です
みなさま、あけましておめでとうございます
今年も、ごひいきに
よろしくお願いします

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2007年12月30日日曜日

目次 2007年

12月

30日:目次

24日:Merry X'mas!

17日:空気は読むものですか?

10日:"I'm not there" ほか

3日:冬支度がすんで

11月

26日:偽装、隠蔽、そして謝罪

19日:細見和之『ポップミュージックで社会科』

12日:古い本をPDFにしました

5日:新しい本が出ました

10月

29日:"A Tribute to Joni Mitchell" "Shine"

22日:富士山の秋

15日:秋がきたような来ないような

8日:先人の『富士日記』

1日: 松坂と野茂

9月

23日:病名の不思議

16日:Patti Smith "twelve"

9日:ディジタルとアナログ

2日:富士吉田の火祭り

8月

27日:南アルプス・甲斐駒ヶ岳

20日:BS と地デジ

13日:追悼!小田実

6日:夏の旅

7月

30日:多湿日照不足

23日:Ry Cooder "My Name Is Buddy"

16日:トクヴィルとアメリカ

9日:『フラガール』

2日:河口湖と七福神

6月

25日:学生のブログ

18日:松本でアイリッシュ音楽を

11日:ムササビの災難

4日:ニール・ヤングの懐かしいライブ

5月

28日:「場所」と「社会」

21日:世界でもっとも貧しい国

14日:迷惑トラックバック

7日:レジ袋は必要です

4月

30日:春と生き物

23日:John Cale "Circus Live"

16日:梅田望夫『ウェブ進化論』ほか

9日:「お父さん」ってだれのこと?

2日:久しぶりの京都

3月

26日:地図、ナビ、Google Earth

19日:K's 工房の個展

12日:冬の肩すかし

5日:忌野清志郎,"King","God"," 夢助"

2月

26日:レイチェル・カーソンの鳴らした警鐘

19日:ターシャの庭

12日:確定申告の書類がこない

5日:2006年度 卒論集『十人十色』

1月

29日:笠雲と犬と牛

22日:Madonna "Confessions on a dance floor"

15日:ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』

8日:まさお君とクィール

2007年12月24日月曜日

Merry Xmas!!

 


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恒例の年末のページです
それにしても1年が早い
気づけば、もう50代もぼちぼち終わり
長く生きたという実感はありませんが
時代の移り変わりの激しさには、驚くばかりです


今年は久しぶりに単著を出しました。
『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)


ついこの間のように記憶していることが
学生たちには、実感のない歴史になっている
しかもその歴史は、メディアによってさまざまに脚色され
都合よくクロース・アップされたり、無視されて、奇妙なものになっている
「そんなんじゃないだろう!」と言いたくなることばかりで
自分の記憶とさまざまな記録をもとにして
道筋を後戻りしてみたいと思いました


この本は、若い人たちはもちろんですが
誰より同世代に読んでほしいと思って書きました
はっきり言って「団塊世代」はマーケティング用語です
そのことをいったいどれだけの人が自覚しているのか
新資本主義の言説は、あらゆるものごとの商品化をめざしている
その誘惑から少しでも距離を置くこと
難しいけど、大切なこと
せめてクリスマスや正月ぐらいは
商戦から遠ざかって暮らしたいものです


Merry Xmas and Happy New Year!!


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2007年12月17日月曜日

空気は読むものですか?

 

・KYって何のことだ、と思ったのはつい最近だ。「空気読めない」をイニシャルにするという発想は奇妙だが、あるのかないのかわからない「空気」を読むのだから、やっぱり曖昧にしたくなるのかな、などと考えると、理解できなくもない。しかし、である。なぜ「空気を読む」ことが今、流行語になるほど自覚されているのだろうか。

・実は、そんな風潮は、もう何年も前から感じている。ゼミで学生が報告しても、強制しなければ、だれも意見を言わない。ましてや、明らかにおかしいところがあっても、反論などは絶対に出てこない。だから、ぼくが一人で、学生をやっつけることになる。当然、ゼミの空気は沈滞した緊張感で被われる。

・その原因は、議論というより、それ以前の「対話」すら満足にできないことにある。高校までの学校生活のなかで、そのための訓練をほとんど受けてこないから、いきなり大学でやれと言っても、所詮は無理なことである。議論は考えをぶつけあって勝ち負けを競う闘いだ。ただしスポーツと一緒でゲームだから、それが互いの人格攻撃になったり、関係の破壊を引き起こすわけではない。つまり、議論をゲームとして行うためには、どんなスポーツをするにも不可欠な、ルールを知らなければならないということなのである。

・このことに気づいてから、ゼミに最初にやってきた学生には、議論がゲームであって、そこにはルールがあること、「対話」は、勝ち負けよりは協力して一つの話、考えをつくりあげるやり方であることを気づかせるところから始めるようになった。だから、学生同士が自発的に対話をしあい、議論をするようになるまでには長い時間がかかることになる。しかも、それでもうまくいかない年もあるから、ゼミの1年がこのことだけに費やされるといったことにもなってしまう。

・「空気を読む」というのは、じぶんでは何も働きかけずに、そこに生まれた雰囲気を察知して、それに同調するという態度だろう。だからここには、「空気を作る」という発想がない。あるいは自覚的に「空気を読まない」といった立場も見つけにくい。つまり、内面的な意味での「個」の存在が欠落し、また否定されているのである。「空気を読む」とは「現存」する「状況の定義」に同調して、自己を「不在」にするパフォーマンスなのである。

・こんなことを学生に話すと、それなりに、「なるほど」という顔をする。しかし、教室を離れれば、やっぱり今まで通りに戻ってしまう。実際そうしなければ、友達とのつきあいはもちろん、さまざまな社会関係がスムーズにできなくなってしまう。だから、やっぱり「空気を読む」ことが必要になるのかと思うと、徒労感ばかりが先に立ってしまう。

・大学では、すでに秋の始まり頃から3年生の就職活動が始まっている。突然、リクルート・スーツで現れる。そんな光景も全く珍しくなくなった。企業はなぜ、わざわざ個性を消すことを好むのか。ここには、どんなきれい事を言っても、個性や自主性よりは同調性のある人間を雇いたいという考えが露骨に反映されている。それはまた、小学校に入学したときから、ずーっとたたき込まれた望ましい自己形成のあり方でもあったから、学生たちは、そこに違和感をもつことも少ない。

・けれども、空気を読んでばかりでは、いつもいつも、相手やその場の雰囲気に流される自分になってしまう。その、いやでも断れない意志の弱さが、マルチ商法の格好の餌食になる。雰囲気への同調という姿勢がオレオレ詐欺の標的になる。あるいは、政治や経済や社会に頻繁する不正や偽装にも、諦めに似た態度で接することになる。異議を唱えるのは、どんなことでも、切実感をもった少数者の行動から始まる。それは「空気を変えたい」という発想から生まれるものだし、「対話」や「議論」によって、人を説得できるという可能性に裏づけられたものである。

・「空気を読む」という発想には、こんな自主性を抑える力が働いている。もちろん、読むことは状況を判断するために欠かせない行動だろう。けれども、その後で、それに同調することが当たり前にされているのは、わからない。

2007年12月10日月曜日

"I'm not there"ほか

 

young6.jpg・今年買ったCDをあらためて並べてみると、全くの新作がきわめてすくないことに気づく。このコラムでもニール・ヤングの伝説のライブ盤を2枚とりあげたが、ヤングはそのあとに、未発表だったアルバムを"Chrome Dreams II"としてわざわざ30年ぶりに作り直している。精力的だが、後ろ向き。そんな特徴は、同様にすでにとりあげたパティ・スミスの"twelve"にも言えた。新世紀になって7年もたったのに、いまだに世紀末のような傾向が続いている。ポピュラー音楽の行き詰まりは明らかだが、世の中全体が行き止まり状態なのかもしれない。

int.jpg・後ろ向きの姿勢には、原点帰りといった一面がある。ライ・クーダーの"My Name Is Buddy"が描写したのは、1920年代に登場したアメリカのフォークソングだし、ディランの"Modern Times"には、同時代のブルースやジャズの雰囲気が盛りこまれた。そのディランの伝記映画"I'm Not There"のサントラ盤を購入した。さまざまな人がディランの歌を歌っている。トリビュート盤が多く出たのは、前回のこのコラムの話題だったが、CDを聞いている限りは、同様の趣きだ。2枚組みで収録されているのは33曲。これらが映画ではどんなふうにつかわれているのか、YouTubeで映画のプロモーション・ビデオを見ると、ケイト・ブランシェットが若い頃のディランを演じている。物議を醸したイギリス公演の記録ビデオ"Don't Look Back"で見たシーンを忠実に再現している。見てみたいが、そのためには、DVDが発売されたら、また買わなければならない。ジャケットの顔は、多分ディランではなくブランシェットだろう。似てはいるが、鼻の形が違う。

taylor1.jpg ・ジェームズ・テイラーの"One Man Band"は故郷の古くて小さいホールでのライブを収録している。同じもののDVD盤がついているから、コンサートの様子が映像として楽しめる。穏やかな歌い方は若い頃からだが、聴衆も同世代でレトロな会場だから、熟成した懐メロという感じがしてしまう。どの曲もアレンジを変えずに一人で歌う。そのアットホームな雰囲気が売り物だろう。
・これを聴いて思いだすのは、去年のコラムでとりあげた、キャロル・キングの"The Living Room Tour"とジャクソン・ブラウンの"Solo Accoustic Vol.1"だし、少し雰囲気が違うが、ジョン・ケールの "Circus Live"だ。ベスト盤のようにして聴くことができるライブ盤。共通した特徴はそんなところだ。ただし、ベスト盤には新しい顧客をつかもうとする狙いが明らかだが、ライブ盤にあるのは、長いつきあいのファンにもう一枚といった戦術だ。わかっていながら買ってしまうのはちょっと癪。だけど、悪くないからまあいいか、と納得もしてしまう。


travis.jpg ・とはいえ、新作もなかったわけではない、すでにとりあげた忌野清志郎やジョニ・ミッチェルのほかに、マーク・ノップラーの"Kill To Get Crimson"やトラビスが久々に出した"The Boy With No Name"もよかった。ノップラーは毎年のように新作を出しているが、どれもいいできで、目立たないけど見逃せないものという感じだ。トラビスの新しいアルバムには'New Amsterdam'という曲があって、そこにはディランへの憧れや、バンドの名前の由来がヴィム・ヴェンダースの「パリ・テキサス」であることが歌われている。そう言われればそうか、とあらためて納得した。
・ふりかえると、今年もたくさんのCDを買った。ただ、買うんじゃなかったとがっかりしたものが1枚もなかったのは幸いだ。わが家のステレオが完全に壊れて、スピーカーを残して、新しいものに買いかえた。だから、もっぱらiPodを接続して楽していたのをやめて、一枚一枚CDを入れて聴いている。そうすると当然音が違うから、あれもこれもひっぱりだしてくることになる。聴くのは一階で、装置は二階にあるから、終わるたびに階段を上がり下がりする。くたびれるけど健康的なこと。面倒になるまでの楽しい苦痛だ。

2007年12月3日月曜日

冬支度がすんで

 

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forest64-2.jpg・例年のように、今年も冬のための薪をそろえた。11月に入ってストーブを燃やすようになったから、4月までの半年あまり、薪ストーブによって暖をとることになる。外は寒くても家の中はいつでも20度で、寒い思いをすることはほとんどない。快適だが、そのための準備は、今年も楽ではなかった。




forest64-3.jpg・薪にする木がどこにあるかは、その年になるまでわからない。ホームセンターで買えば簡単だが、これまでは、偶然の出会いを当てにしていて、うまく見つけられてきた。たとえば、山をドライブしていてたまたま倒木を見つけたり、砂防ダムの工事現場に出会ったり、といったことが必ずあった。今年は3月に、家のすぐ近くの川に倒れかかっている何本もの木を見つけて、さい先がよかった。しかし、その後は何の出会いもなく、今年は買うようかなと思っていたら、造園業ではたらく知り合いが、木を集めていてくれて、それを車で何度も運びつづけることになった。とはいえ、それは家の近くではなく、東京からだったから、毎週一回は車の後部座席を倒して、薪を積んで高速道路を家路につく、ということをやらねばならなかった。それをいったい何回やったのか、よく覚えていないが、運んでない薪はまだ沢山ある。

forest64-4.jpg・半年分の薪は家のまわりをぐるっと一回りするほどになる。それを一番日当たりのいい南側で乾かして、順に西や東に移してゆく。春先からはじまって暑い夏の時期を過ぎ、秋の終わる頃に一杯になる。それが今頃から、徐々に減り始めて、冬の終わりには残り少なくなる。毎年のようにくりかえす作業と風景だが、今年も燃やす季節になった。 

 

 

forest64-5.jpg・石油の値上がりは、何よりガソリンで痛感しているが、灯油の値上がりにもあらためてびっくりしてしまう。1Lあたり80円を超えて、90 円にもなろうとしているのだ。ここへひっこしてきたばかりの頃は、確か30円台だったから、2倍どころか3倍にもなろうとしているのである。これでは、灯油だけで冬の暖房をまかなっている家庭はたまったもんではないだろう。そのせいか、薪ストーブ復活などというニュースも耳にしはじめた。けれども、これはイメージするほど簡単ではない。第一、毎日の灰の始末とガラスについたヤニとりは、面倒くさがっていたのでは、続かない作業なのである。