2008年1月21日月曜日

我が家の食べもの

 


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forest65-2.jpg・買い物は週一回で、買うものはほぼ決まっている。果物から始まって、野菜、魚、肉、牛乳、それに麺類や乾物、調味料、で、最後はお菓子のコーナーを回る。その順路もいつも変わらない。レジ袋に4〜5袋。これに冬場だと灯油が20Lx6缶にもなるから、帰りはワゴンの荷台が一杯になる。二人しかいないのによく食べるな、と思うが、一週間でほぼなくなるから不思議だ。みんな僕の胃袋に消えているのだとすると、やっぱり食べ過ぎかな、と反省しないこともない。

forest65-5.jpg・もっとも、ほとんど外食しないし、大学へも弁当を持っていくから、食事の大半は、我が家ですましていることになる。大体、何でも作れるし、材料を確かめて食べたいから、外食は自分では作れないもの、たとえば、月一回のウナギ(河口湖駅前の川津屋)や、海の近くに遠出をしたときの寿司といったものにかぎられる。昔ながらの洋食屋のメニューは僕のお得意だし、イタリアンやパンならパートナーが作るものの方が外で食べるよりずっとおいしい。

forest65-1.jpg・ストーブをつけるようになると、当然、煮物が多くなる。カレー、シチュー、肉じゃが、あるいはブリ大根………。2日も後の食事を考えて準備したりするのだから、テレビでやるこだわりの店にも負けないと、本当に思う。ただ、材料は何処どこの何々といったこだわりはない。カレーは牛のすじ肉で十分だし、豚肉だって切り落としでいい。もっとも、できるだけ近くのもの、これは、野菜では特に気にしているが、残念ながら、冬になるとぐんと少なくなる。

forest65-6.jpg・おいしいものを食べようと思ったら、とにかく手間暇かけること、これが一番だ。面倒くさがってはいけないが、大体、食事は作るとき、というよりは材料選びの時から楽しい行為のはずなのである。右にあるのはパートナーが作ったカボチャのパイ。彼女は他にも、ビスケットやジャムを手作りしている。僕が作るのはカスタードクリームとそば粉のクレープ。ただし、メタボが心配だから、たまにと抑えている。 

 

forest65-8.jpg・買い物に行ったときに欠かさないのが大福。冬になるとそれに苺が加わる。餅に少し切れ目をつけて、大きな苺を一つ入れる。で、半分に切ると、右のようになる。これはこつがいるから僕の仕事。一番近い静岡の「紅ほっぺ」は、なぜか熟していないことが多い。「栃乙女」の方が少しましだが、一番熟して甘いのは福岡の「甘王」。はるばる九州から燃料使って運ばれてくるのが気に入らないが、どうしても、おいしいものに手が伸びてしまう。

2008年1月14日月曜日

硫黄島の2部作

 

・クリント・イーストウッドが監督をした、硫黄島の2部作『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』を見た。戦争映画は必ず、一方の側から見た物語になる。だから太平洋戦争をテーマにしたアメリカ映画を見れば、敵が日本軍になり、見ていて奇妙な違和感に囚われることが少なくなかった。たとえば、ノーマン・メイラーの『裸者と死者』は、その典型で、そこに出てくる日本兵に対して感じた複雑な思いは今でもよく覚えている。
・戦争には、どちらの側にも大義名分がある。で、こちら側は正義で相手は邪悪ということになる。ブッシュの演説でおなじみだが、映画はそのような視点をさらに強調するから、敵側にアイデンティファイしたのでは、とても見られたものではなくなってしまう。もちろん、そうでない戦争映画もなくはないし、『裸者と死者』も決して能天気な戦争映画ではなかった。

・ジェームズ・ジョーンズの『地上より永遠に』を原作にしたテレンス・マリック監督の『シン・レッド・ライン』は、ガダルカナル島での日本軍との戦いを描いているが、戦闘場面はほとんどなくて、主題は戦場で生死の淵をさまよう人間達の心模様だった。印象的だったのは、ガダルカナル島が天国のような島で、そこに地獄のような世界を挟み込んで対照させるという手法である。豊かな動植物、のんびりとした島民の暮らし、それに、日米両軍の兵士たちが繰り返す死闘。この映画が優れていたのは、兵士たちの心理状態の描写を米軍だけでなく、捕虜にした日本兵にもしていたところだった。僕は、今まで見た戦争映画の中で、これが一番優れたものだと思っていた。

letter.jpg・硫黄島の2部作は、一つの闘いを両方のサイドから別々に二つの作品として描いたもので、同時につづけてみると、今までの映画では経験しなかった感覚を味わうことができる。もちろん、主題は壮絶な戦闘シーンよりは、そこにいた兵士たちの心理状態であり、戦場に来るまでのそれぞれの経歴や生活である。『硫黄島からの手紙』で描かれる日本軍の兵士は、日本でこれまで作られた戦争映画とは少し違っている。全軍を指揮した栗林中将はアメリカでの留学経験があり、精神主義ではなく、冷静に戦略を練るタイプだし、部下にはオリンピックの馬術でメダルを取った西中佐もいた。直情型の兵隊もいれば、生きて返ることを最後まで考えていた兵隊もいた。玉砕的な行動を厳禁し、不利な戦力をもとに考え出された戦略が日本軍の抵抗を強いものにしたが、そのために日本軍はほぼ全滅し、アメリカ軍にも多大な被害をもたらすことになった。

flags.jpg・『父親たちの星条旗』はアメリカ軍からみた硫黄島の戦いである。実は僕は、この戦いについては、これまで日本側のことは何も知らなかった。ところが、アメリカ側についてはピーター・ラファージの「バラッド・オブ・アイラ・ヘイズ」を知っていたから、彼がどう描かれているのかについては、映画が作られたという話を聞いてからずっと気になっていた。もっとも最初に聴いたのはディランの歌だった。
・アイラ・ヘイズはピマ・インディアンで、硫黄島の擂鉢山に星条旗を掲げて英雄に祭りあげられた兵士たちの一人である。ラファージはその英雄が、その後の人生を狂わされ酒浸りになったことを歌っている。映画を見ると、アイラ・ヘイズが酒浸りになった理由がよくわかった。硫黄島の英雄は、戦時国債の宣伝に使われて、アメリカ中を巡回させられたのである。時にはスタジアムで、張りぼての擂鉢山に登って旗を立てることまでやらされたようだ。

・英雄でも何でもないのに、英雄の演技をさせられる。戦友を多く失った地獄のような戦いの後で待っていたのが、嘘で塗り固められた宣伝の世界だから、おかしくなるのが普通の心理だろう。『父親たちの星条旗』は『硫黄島からの手紙』とは違って、戦いの後や現在のシーンなども登場して、戦争の残酷さや無益さを訴える構成になっている。ここにあるのは、過去の歴史ではなく、現代の戦争に対する批判である。クリントイーストウッドはそれを声高に主張してはいないが、それだけに、そのメッセージがよく伝わってくる映画だと思った。

2008年1月7日月曜日

走ることについて語ったこと、について

 

murakami.jpg・村上春樹の作品はほとんど読んでいる。しかし、小説に比べてエッセイはおもしろくない。そんな印象を持っていたから、期待しなかったのだが、『走ることについて、語るときに、ぼくの語ること』(文藝春秋)はおもしろかった。ぼくは走らないから、マラソンやトライアスロンそのものについて語っているところは、どうでもいい。ぼくが興味をもったのは、走ることを中心にしながら、じぶんのこれまでの道筋をたどり、じぶんの性格や信条について、彼が語っているところだ。
・その素顔と思える一面に接して、まず感じたのは「何とストイックな人なんだろう!」ということだ。小説を書くことに専念するために喫茶店を閉じたら、途端に太り始めてきた。走りはじめたのはそれがきっかけで、『羊の冒険』を書いた後だというから、もう25年以上も走り続けていることになる。その持続力もたいしたものだが、絶えずじぶんに課題や目標を与えて、そのための努力を怠らない、その生真面目さ、勤勉さは、彼の小説から受ける印象とはずいぶん違う感じがした。
・ところが村上は、走ることと書くことを、ほとんど同じスタンスでとらえている。たとえば、次のような語りがある。


 誰かに故のない(と少なくとも僕には思える)非難を受けたとき、あるいは当然受け入れてもらえると期待していた誰かに受け入れてもらえなかったようなとき、僕はいつもより少しだけ長い距離を走ることにしている。………中略………腹が立ったらそのぶん自分にあたればいい。悔しい思いをしたらそのぶん自分を磨けばいい。そう考えて生きてきた。

・つまり、村上春樹にとって書く作業は走ることと同じだ。誰に言われたわけでもなく、じぶんで決めて、目標を設定して、できるだけその通りにこなしていく。もちろん、マラソンを走れば競争心も湧くし、小説家としては作品の評判も気になる。しかし、そこで感じた悔しさや腹立ち、あるいは寂しさは、他者にではなく、じぶんに向かう。彼にとって大事なのは、じぶんで決めた目標に対する達成の度合いであって、他者からのものではないからだ。
・村上ワールドに長年親しんできた感じから言えば、村上春樹の想像力は天才的なものだという気がしていた。しかし、この本を読むと、彼はむしろじぶんを不器用の人間として理解していて、いつでも努力して精進しなければ、納得できる仕事はできないと考えている。中年をすぎて、ランニングするじぶんに体力の衰えを感じているように、作家としての想像力も、放っておけば枯れてしまうと自覚している。そうならないための走りであり、翻訳作業であるというわけだ。

・とは言っても、走ることはけっして、作家としての資質を維持するための手段ではない。走ることはそれ自体、じぶんの中に大きな存在感を持っている。走りながら何かを考えるわけではない。インスピレーションを求めているわけではない。それはむしろ「ホームメードのこぢんまりした空白」や「懐かしい沈黙」を作りだす。そこにじぶんを置き、その時間や空間や行為と戯れる。この感覚は僕にもよくわかる。ただし、そこに苦しさがともなうのは、ぼくはごめんだが………
・木工を始めたら、頭は考えることを休止する。自転車に乗る、カヤックを漕ぐ、薪割りをする。あるいはトレッキングをする。いつでもそれは、空白の時間で、しかも無駄なことをしたなどと感じないひとときだ。もちろん、癒しなどとは違うし、リクリエーションでもない。何が目的で何が手段か、それは一概に言えることではないのである。

・僕もじぶんの才能のなさをくりかえし自覚してきた。しかも、歳を重ねるとともに、わずかにあった想像力さえ枯れてしまってきている。だからこそ、日頃の鍛錬と、持続する意志を怠らないことが大事だ、とつくづく思う。あるいは、じぶんを判断するのは、他人ではなく、自分なのだということも、僕にとっては基本的な基準として、ありつづけてきた。その意味では、この本で彼が書いていることには、共感できる部分がたくさんある。
・ただし、ぼくは、村上春樹が作家という仕事にもっているような天職的な意味を感じてはいない。ぼちぼち仕事をやめて、無為に生きたい、と考え始めている。大学の職に就いているからなのだが、それを辞めても、僕は書くことをつづけたいと思うだろうか。そうだと言える自信は、今のところほとんどない。この本を読んで、村上春樹が求道者のように思えてきた。

・P.S.野茂がカンサスシティ・ロイヤルズとマイナー契約を結んだ。ヴェネズエラのリーグで投げていて、メジャー・リーグへのカムバックを期していることは知っていたから、ホッとした。先発ローテーションへのサバイバル・レースがもうすぐ始まる。持続する志。すごい人がもう一人いた。

2008年1月1日火曜日

謹賀新年

 

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少し、いや、かなり寒いけど
のどかな正月です
みなさま、あけましておめでとうございます
今年も、ごひいきに
よろしくお願いします

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2007年12月30日日曜日

目次 2007年

12月

30日:目次

24日:Merry X'mas!

17日:空気は読むものですか?

10日:"I'm not there" ほか

3日:冬支度がすんで

11月

26日:偽装、隠蔽、そして謝罪

19日:細見和之『ポップミュージックで社会科』

12日:古い本をPDFにしました

5日:新しい本が出ました

10月

29日:"A Tribute to Joni Mitchell" "Shine"

22日:富士山の秋

15日:秋がきたような来ないような

8日:先人の『富士日記』

1日: 松坂と野茂

9月

23日:病名の不思議

16日:Patti Smith "twelve"

9日:ディジタルとアナログ

2日:富士吉田の火祭り

8月

27日:南アルプス・甲斐駒ヶ岳

20日:BS と地デジ

13日:追悼!小田実

6日:夏の旅

7月

30日:多湿日照不足

23日:Ry Cooder "My Name Is Buddy"

16日:トクヴィルとアメリカ

9日:『フラガール』

2日:河口湖と七福神

6月

25日:学生のブログ

18日:松本でアイリッシュ音楽を

11日:ムササビの災難

4日:ニール・ヤングの懐かしいライブ

5月

28日:「場所」と「社会」

21日:世界でもっとも貧しい国

14日:迷惑トラックバック

7日:レジ袋は必要です

4月

30日:春と生き物

23日:John Cale "Circus Live"

16日:梅田望夫『ウェブ進化論』ほか

9日:「お父さん」ってだれのこと?

2日:久しぶりの京都

3月

26日:地図、ナビ、Google Earth

19日:K's 工房の個展

12日:冬の肩すかし

5日:忌野清志郎,"King","God"," 夢助"

2月

26日:レイチェル・カーソンの鳴らした警鐘

19日:ターシャの庭

12日:確定申告の書類がこない

5日:2006年度 卒論集『十人十色』

1月

29日:笠雲と犬と牛

22日:Madonna "Confessions on a dance floor"

15日:ロバート・D・パットナム『孤独なボウリング』

8日:まさお君とクィール

2007年12月24日月曜日

Merry Xmas!!

 


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恒例の年末のページです
それにしても1年が早い
気づけば、もう50代もぼちぼち終わり
長く生きたという実感はありませんが
時代の移り変わりの激しさには、驚くばかりです


今年は久しぶりに単著を出しました。
『ライフスタイルとアイデンティティ』(世界思想社)


ついこの間のように記憶していることが
学生たちには、実感のない歴史になっている
しかもその歴史は、メディアによってさまざまに脚色され
都合よくクロース・アップされたり、無視されて、奇妙なものになっている
「そんなんじゃないだろう!」と言いたくなることばかりで
自分の記憶とさまざまな記録をもとにして
道筋を後戻りしてみたいと思いました


この本は、若い人たちはもちろんですが
誰より同世代に読んでほしいと思って書きました
はっきり言って「団塊世代」はマーケティング用語です
そのことをいったいどれだけの人が自覚しているのか
新資本主義の言説は、あらゆるものごとの商品化をめざしている
その誘惑から少しでも距離を置くこと
難しいけど、大切なこと
せめてクリスマスや正月ぐらいは
商戦から遠ざかって暮らしたいものです


Merry Xmas and Happy New Year!!


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2007年12月17日月曜日

空気は読むものですか?

 

・KYって何のことだ、と思ったのはつい最近だ。「空気読めない」をイニシャルにするという発想は奇妙だが、あるのかないのかわからない「空気」を読むのだから、やっぱり曖昧にしたくなるのかな、などと考えると、理解できなくもない。しかし、である。なぜ「空気を読む」ことが今、流行語になるほど自覚されているのだろうか。

・実は、そんな風潮は、もう何年も前から感じている。ゼミで学生が報告しても、強制しなければ、だれも意見を言わない。ましてや、明らかにおかしいところがあっても、反論などは絶対に出てこない。だから、ぼくが一人で、学生をやっつけることになる。当然、ゼミの空気は沈滞した緊張感で被われる。

・その原因は、議論というより、それ以前の「対話」すら満足にできないことにある。高校までの学校生活のなかで、そのための訓練をほとんど受けてこないから、いきなり大学でやれと言っても、所詮は無理なことである。議論は考えをぶつけあって勝ち負けを競う闘いだ。ただしスポーツと一緒でゲームだから、それが互いの人格攻撃になったり、関係の破壊を引き起こすわけではない。つまり、議論をゲームとして行うためには、どんなスポーツをするにも不可欠な、ルールを知らなければならないということなのである。

・このことに気づいてから、ゼミに最初にやってきた学生には、議論がゲームであって、そこにはルールがあること、「対話」は、勝ち負けよりは協力して一つの話、考えをつくりあげるやり方であることを気づかせるところから始めるようになった。だから、学生同士が自発的に対話をしあい、議論をするようになるまでには長い時間がかかることになる。しかも、それでもうまくいかない年もあるから、ゼミの1年がこのことだけに費やされるといったことにもなってしまう。

・「空気を読む」というのは、じぶんでは何も働きかけずに、そこに生まれた雰囲気を察知して、それに同調するという態度だろう。だからここには、「空気を作る」という発想がない。あるいは自覚的に「空気を読まない」といった立場も見つけにくい。つまり、内面的な意味での「個」の存在が欠落し、また否定されているのである。「空気を読む」とは「現存」する「状況の定義」に同調して、自己を「不在」にするパフォーマンスなのである。

・こんなことを学生に話すと、それなりに、「なるほど」という顔をする。しかし、教室を離れれば、やっぱり今まで通りに戻ってしまう。実際そうしなければ、友達とのつきあいはもちろん、さまざまな社会関係がスムーズにできなくなってしまう。だから、やっぱり「空気を読む」ことが必要になるのかと思うと、徒労感ばかりが先に立ってしまう。

・大学では、すでに秋の始まり頃から3年生の就職活動が始まっている。突然、リクルート・スーツで現れる。そんな光景も全く珍しくなくなった。企業はなぜ、わざわざ個性を消すことを好むのか。ここには、どんなきれい事を言っても、個性や自主性よりは同調性のある人間を雇いたいという考えが露骨に反映されている。それはまた、小学校に入学したときから、ずーっとたたき込まれた望ましい自己形成のあり方でもあったから、学生たちは、そこに違和感をもつことも少ない。

・けれども、空気を読んでばかりでは、いつもいつも、相手やその場の雰囲気に流される自分になってしまう。その、いやでも断れない意志の弱さが、マルチ商法の格好の餌食になる。雰囲気への同調という姿勢がオレオレ詐欺の標的になる。あるいは、政治や経済や社会に頻繁する不正や偽装にも、諦めに似た態度で接することになる。異議を唱えるのは、どんなことでも、切実感をもった少数者の行動から始まる。それは「空気を変えたい」という発想から生まれるものだし、「対話」や「議論」によって、人を説得できるという可能性に裏づけられたものである。

・「空気を読む」という発想には、こんな自主性を抑える力が働いている。もちろん、読むことは状況を判断するために欠かせない行動だろう。けれども、その後で、それに同調することが当たり前にされているのは、わからない。