・井上摩耶子さんはフェミニスト・カウンセラーで、この欄でもすでに2度、彼女の本の紹介をしてきた。最初は『フェミニスト・カウンセリングへの招待』(1998)で、2回目は『ともにつくる物語』(2000) だから、『フェミニスト・カウンセリング』 は10年ぶりに出された本ということになる。しばらくぶりの出版で、彼女は編者として10人を越える執筆者をまとめている。これを読むと、「フェミニスト・カウンセリング」という仕事がこの十数年間で実体化し、社会的な役割を果たすようになってきたことがよくわかる。
・この本の著者の多くが所属する「ウィメンズ・カウンセリング京都」(WCK)は1995年に立ちあげられた。2006年にはスタッフが 10万円ずつ出資して株式会社として運営されている。カウンセリングを受けに来る人も、対応するカウンセラーも女で、そこで取り組まれるのは「ドメスティック・バイオレンス」(DV)や「セクハラ」、そして「強姦」といった問題が多いようだ。
・この種の問題を抱える女たちの相談に乗り、アドバイスをするためには、カウンセラーはやはり、女である必要がある。その理由は、加害者の大半が男であること、男には話しにくい内容であること、男の立場や固定観念から解釈され、判断されてしまいがちであることなどにある。そして、「フェミニスト」と名のつくカウンセリングである最大の理由は、相談にやってくる人たちに、問題に対する責任が自分にではなく加害者にあり、さらには、その基盤に家父長制度以来の男中心社会を正統なもの、当たり前のものとする考えがあることを理解させることにあるからだ。
・たとえば、セクハラや強姦といった問題に際してよく言われることに、男を刺激する態度や外見が原因になったのではないかとか、男の性欲は生理的なものだから、その気にさせない用心が女にも必要なのだといった主張がある。僕も女子学生たちの服装や無警戒な態度に気づくことがよくある。歳のせいか、その都度、話題にして「気をつける方がいいよ」と言ったりするが、しかし、だからと言ってセクハラや強姦にあう責任の一端が女の方にもあるとは思っているわけではない。男は確かに、性的な興味を目の前にいる女に抱くことはある。しかし、それを自覚することと、そのことをきっかけに行動に移すことの間には、限りなく大きな断絶がある。それは、誰かを殺したいと思うことと、実際に行動することの違いにあるものと同等のもののはずである。
・フェミニスト・カウンセリングはだから、相談に来た人たちに、女が置かれた立場や性や暴力についての社会通念の不当さを理解させるのが必要になる。彼女たちはしばしば、そんな社会通念を内面化し、そこから、自分の責任を痛感して、自責の念に囚われたりしてる場合が多い。そして、経験したことについて、それを自分のことばで表現し、自分で判断する力を持っていない人が大半のようだ。だから、フェミニスト・カウンセリングにとって大事なことは、何より被害者である女たちが、その不当さを自覚し、加害者や社会に向かってそれを訴える力を付与させること(エンパワーメント)にある。
・この本を読んでいて気づくのは、カウンセリングが何よりコミュニケーションであるこということだ。コミュニケーションの理想は、互いが共感しあうことにあるが、それはまた、互いが違う個別の人間であることを前提にしてはじめて意味のあるものになる。よりよいコミュニケーションは分離を前提にした結合を目指すところに生まれ、上下や優劣ではなく、平等な関係を基本にしたところにこそ実現する。コミュニケーション能力の必要性がよく話題にされるが、いつも気になるのは、その中に、このような視点を見つけにくいということだ。その意味で、「フェミニスト・カウンセリング」には特殊な状況に追い込まれた一部の女たちにとってだけではない、もっと一般的な意味で重要なコミュニケーション能力の身につけ方が模索され、実践され、獲得されているように思う。