堺屋太一『団塊の世代「黄金の十年」が始まる』(文藝春秋),残間里江子『それでいいのか蕎麦打ち男』(新潮社),林信吾、葛岡智恭『昔、革命的だったお父さんたちへ』(平凡社新書)
・団塊世代が話題になっている。定年退職が始まる2007年が危機なのだそうだ。一気にやめて職場に穴があく。年金受給者がいっぺんに増える。ぼくはこの世代に属しているが、定年はまだだいぶ先だから、他人事のように受け取っている。しかし、同世代のことだから、気にはなる。で、何冊か読んでみた。結論を言うと、どれも読んで強烈な違和感をもった。一言で言えば不愉快。
・ぼくは何より「団塊」ということばが大嫌いだ。確かに生まれたときからずっと「世代」として注目され、いろいろに名づけられてきた。「ベビーブーム」から始まって「全共闘」「ビートルズ」とつづき、それがやがて「団塊」で定着した。名付け親は堺屋太一だが、話題になったのは70年代の後半で、この世代はすでに30代になろうとしていた。
・もう充分いろいろ名づけられてきたのに、こんな時期になってまた何で、団子の塊なんて言われなきゃならないのか。そんな気持ちだったから、話題になった堺屋の小説を手にする気にもならなかった。
・『団塊の世代「黄金の十年」が始まる』は、題名通りこの世代に期待を込めて書いている。将来に不安を持つ必要はないという論調は一見明るい気持ちにさせるが、要するに、それは日本の経済についての話であって、当の世代の立場に立って考えているわけではない。第一に作者は、ぼくらの世代を「サラリーマン」としてしかとらえていない。彼によれば「団塊」とは「企業戦士」「経済大国化のエンジン」として日本の戦後を支えてきた世代で、「既につくられた制度や社会条件によく順応できる器用さと従順さを身につけながら、新しい豊かさに適した発想と人生観を創造してきた」人たちと言うことになる。企業の中ではそういう人たちが目立ったのかもしれない。しかし、そうだとすると、60年代の政治や文化に対して僕らの世代がした問いかけや新しい動きは何だったのか。著者にとっては、それはふれる必要のない些細なことのようである。
・彼によれば、消費社会は大阪万博を契機に始まったのであり、それはまた団塊文化の出発点だったということだ。カジュアルな服装、テイクアウトの食事、あるいはコンビニまで万博が最初というのだからおそれいってしまう。手前味噌の自慢話をここまではずかしげもなくされると開いた口がふさがらない。ほとんどはやりもせずに死語になった「知価革命」がくり返し出てくると、もう勘弁して欲しいという気になってしまう。
・残間里江子の『それでいいのか蕎麦打ち男』は同世代による「団塊世代」論である。だから、自分自身や周辺で思い当たる点も少なくない。かなり重要なポイントとして納得できるのは、価値観や生活スタイルの大きな変わり目を生きてきて、その古い部分と新しい部分をかかえこんでいるから、一人ひとりがそれぞれに、葛藤やジレンマに悩まされてきたというところだ。だから当然、団塊以前の世代とはもちろん、以後の世代とも違う特色を持っていて、しかも、世代の中でも価値観や生活スタイルは一様ではない。もしこの世代を論じるとすれば、ここが基本になるはずなのだが、この本の話題は、作者の交友範囲に限定されてしまっていて、雑誌の編集者や広告マン、あるいはテレビ関係者などばかりである。
・しかも、狭い範囲の経験を「団塊男」「団塊女」はと簡単に一般化するから、話はかえって焦点ボケしてしまう。「旅が好き」「雑誌好き」などというのは世代に関係ない共通の傾向だし、「群れるのが好き」はヒルズ族にまで言える日本人の変わらない性格でしかない。「愛」」や「友情」が人間関係の基本に入り込んできた最初の世代だから、そのことを口にすることは多いのかもしれない。けれどもそれはこの世代に限られたことではなく、以後の世代にも継続したものである。問題にするとすれば、古い地縁や血縁の関係との間で揺れ動いた点にあって、その対処の仕方でずいぶんと違う人生を歩いてきているはずなのである。
・題名になっている「蕎麦打ち男」は仕事を辞めた後の「アイデンティティ」探しの一例である。だから、ここには「陶芸」や「NPO」への参加などといった例も出される。あるいは生活の場を変えて田舎暮らしといった話もある。しかしこれも、この世代に限られたことではなく、数が多くて退職の時期が近づいているから目立つということにすぎないのではないかと感じる。仕事以外に自分で夢中になれるもの、楽しく過ごせることをもつ。それは世代を超えた願望で、むしろ若い世代の人たちの方に強く見受けられることのようにも思う。例えば、河口湖には大勢の釣り客が来るが、目につくのは若いカップルや友人グループで、それはパートナーのところに陶芸の体験に来る人たちにも共通している。
・『昔、革命的だったお父さんたちへ』は10歳ほど若い人による団塊世代論である。内容はこれまで一番耳にした世代批判で埋められている。何でこんなに語気強く、あるいは皮肉や嫌みたっぷりに攻撃してくるのだろう、と思ってしまう。そんなこといわれる筋合いはこちらには全然ないのに、自覚なしに横暴に振る舞ってきたのだろうか。たぶん上司や先輩にイヤなやつがいて、表面上は平静に対応してきたが、内心では腹が立ってしょうがない。内容から伝わってくる著者たちの思いはこんなものなのだという感じがする。
・そんなことはあるのかもしれないと思う。しかし、この本に書かれた現実認識はまた、ずいぶん偏見や思いこみに満ちたひどいものである。彼らによれば団塊世代は学生時代には社会を激しく批判しながら、就職すると企業戦士に変身した節操のない輩だし、消費社会を煽り、またそれに乗ってバブル時代を招いた元凶だし、ニートや引きこもりを招いた親失格の世代だということになる。そういう問題を自分のこととして考える必要はもちろんあるのだと思う。けれども、それはわずか数年にまたがるだけの世代に特定されて責任を問われることではないはずである。
・この本に限らないが、ちょうど一世代ほど下の人たちが言う団塊世代批判には、屈折した嫉妬心を感じてしまう。この本の前半は長い学生運動史になっている。団塊世代を語るには長すぎるし饒舌すぎるが、学生運動を語るにはまた、不十分で一面的にすぎる。それは「本当はそこに自分も参加したかった」と言っているかのようである。「遅れてきた青年」の悲哀などと言ったら、また一層感情的な批判をされてしまうだろうか。
・いずれにせよ、「団塊世代論」に一番強く感じる違和感は、世代に属する人間を一色に塗って納得してしまうという解釈の仕方だ。それは血液型や星座で性格や運命を診断される時に持つうさんくささや違和感に通じている。団塊世代は1947年から49年にかけて生まれた600万人超を指したり、
51年あたりまで拡大して1000万人だとされたりする。ここにはもちろん、同じ時代を生きてきたことによる共通した「社会的性格」を見ることができるだろう。ただしそれは、一人ひとりの人間のごく一部に見受けられる共通性として理解すべきもので、その一部分があたかも全体であるかのように解釈されてはたまらない。
・その理由をいくつか書いておこう。「団塊世代」=学生運動としてとらえられるが、その時代の進学率は2割ほどでしかなかった。また「団塊世代」=企業戦士(とりわけ大企業)としてとらえられるが、その世代に占める割合はさらに小さなものだ。だから「学生運動→企業戦士」というコースを歩いた人は、この世代の数%にすぎなかったはずである。ところが「団塊世代」というと現実的にはここにばかり注目が集まってしまう。ここで紹介した3冊もその点では共通している。
・経験的に言えば、そういう変身をした者もいたが、同時に、社会の傾向に反対する運動に関わって生活してきた人たちもいて、「経済大国」や「消費社会」や「バブル」だけではなく、「公害」「環境」「フェミニズム」といった問題を確立させる力にもなってきている。あるいは文化的な側面でも、メディアに登場したりビジネスとして成功した人ばかりが注目されるが、音楽にしてもアートにしても、商品化に批判的な姿勢を持って活動した人の数も少なくない。その多様さに注目しなければ、この世代が歩いた道筋を見定めることはできないはずである。