・フィリップ・ロスの『プロット・アゲンスト・アメリカ』は、1940年のアメリカ大統領選挙でF.D.ルーズベルトではなく、C.A,リンドバーグが当選していたらという、仮定の物語である。リンドバーグは飛行機で初めて大西洋を単独横断した英雄で、実際に選挙では、彼を候補にしようとする動きもあったようだ。リンドバーグは反ユダヤ主義者でヒトラーとも近かったから、彼が当選したら当然、アメリカは第二次大戦には参戦しなかったはずである。そうすると、戦況はドイツ優勢のままに進み、日本軍の真珠湾攻撃もなかっただろう。それだけではなく、アメリカ国内でも、ユダヤ人に対する反感が高まり、大統領も反ユダヤ政策を推し進めたに違いない。
・そうなったとしたら、アメリカ社会はどうなったか。この小説は、その様子を7歳のフィリップ少年の目を通して描き出したものだ。この主人公の少年が作者自身であることは明らかだ。そして舞台も作者自身が生まれ育ったニュージャージー州ニューアークのユダヤ人街である。少年が育ち、成長する過程で経験した父や母、兄弟、親戚、隣人との関係、そしてこの町そのものの実際の歴史を念頭に置きながら、リンドバーグの登場によって、それらが変質し、壊れていく様子は、少年を介しているだけに切実だ。
・アメリカが第二次世界大戦に参戦しなかったことにより、ヨーロッパはドイツに占領され、日本は中国はもちろん、オーストラリアやニュージーランドまでを支配することになる。南米までもヒトラーの手に落ちるが、それでもリンドバーグへの支持は落ちなかった。多くの人命と莫大な戦費を失うよりは、その方がずっとましだという主張に、多くの国民が賛成したからだ。そしてアメリカ国内での批判はユダヤ系アメリカ人に向けられていく。ユダヤ人街が解体され、日系人が実際に経験した強制移住を強いられるようになる。人びとによるユダヤ人狩りも頻発し、少年とその家族にも危険が押し寄せる。
・そんな状況が一変するのは、リンドバーグが自ら操縦する飛行機が行方不明になったからだった。国内は大混乱に陥るが、大統領選でルーズベルトが再選されると、アメリカは大戦に参戦し、ドイツと日本は負けることになる。大戦が終結し、アメリカにも平穏な時が訪れるが、フィリップ少年やその家族、そして近隣の人たちが受けた傷は、そう簡単には癒やされない。
・この小説を読みながら感じたのは、国のリーダーの登場によって一変する世論の動向や、それによってもたらされる政治や社会の変容だった。それが少年の目を通して描かれるから、大人たちの狼狽ぶりや、保身や損得勘定に基づく豹変ぶりがよりあからさまになる。それは実際に、最近でも世界中でくり返されてきたことである。ブッシュ大統領の登場と貿易センタービルへの航空機の衝突が、アラブ地域における戦争と惨状を連続させていることなどは、まさに、この小説の再現そのものと言えるかもしれない。
・それなら、もし、ブッシュがアフガニスタンやイラクに侵攻しなかったら、今の世界はどうなっていただろう。そんなことを考えながら、この本を読んだ。イラクは相変わらずフセイン独裁の国かもしれないが、シリアの内戦もなかっただろうから、ヨーロッパに難民が押し寄せることもなかっただろう。それよりもっと、ブッシュが大統領にならなかったらどうだったろう。おそらく世界の情勢は、今とはずい分違っていたかもしれない。そして決して悪い方向へというのでないはずだ。
・もし日本が第二次世界大戦に勝っていたら、などというのは想像するのもおぞましい。しかし今は、そんな方向に舵を切ろうとする政権が支配していて、戦争中に起こしてしまったことをなかったことにしようとしているのである。朝鮮半島における徴用工や従軍慰安婦、中国での南京虐殺等々である。この政権は、森友加計問題から、最近の桜を見る会まで、そんな事実はなかったと白を切って、証拠書類などを改竄、あるいは廃棄してしまっている。なぜ、こんな政権が生まれて、しかも長続きしてしまっているのか。まるで現実が架空の話であるかのように感じられてしまう。私たちがいるのは、そんな奇妙な世界である。