2005年1月25日火曜日

「音楽文化論」で伝わったもの

 

・今年度から『音楽文化論』の担当をして半年間の授業を終えた。初めてだったから、学生の反応を見ながらの手探りの講義だった。学生たちが今、どんな音楽をどんなふうに、どんな気持で聴いているのか。それが気になって、最初の授業で一番好きな歌の歌詞を書いてくる宿題を出した。浜崎あゆみ、ミスチル、ゆず、SMAPなどよく売れている歌手の曲が多かった。意外だったのは、愛や恋ではなく、自分探しやはげましの歌詞が目立ったこと。歌から元気をもらう、悩みや不安を解消、あるいは忘れさせてくれる、考え方や感じ方の指針にする。これは、最近の曲の歌詞にはほとんど意味がないないのでは、と思っていた僕には意外な結果だった。
・もっとも授業では、そんな最近のJ-popなどはほとんど話題にしなかった。音楽や歌が身近に溢れていて、こんな時代は今までなかったこと。商品として消費する音楽。それを可能にし、また促進させるメディアと音楽を利用した経済。自覚してほしかったのは、まず、自分が生きているこの社会の特徴で、音楽はそれを理解するための具体例として利用してほしいという点にあった。
・次にしたのは、今から離れた「昔」の話。学生たちが何のこだわりもなく使う「昔」ということばには、時間感覚がおそろしく欠落している。日頃からそれを感じていたから、20世紀の後半の時代を音楽からはじめて、「若者」と呼ばれる世代への注目とその政治的、経済的、社会的、そして文化的な理由などを説明した。この半世紀の変容はとても「昔」などということばで一括りできるほどに単調なものではない。そのことを力説したつもりだった。
・学生に感じる欠落は「空間」についても言える。今聴いている音楽はどこで、だれが、どんな理由ではじめたものか。そのことをきっかけにして、多様なポピュラー音楽にはそれぞれ、それが生まれ、共感され、広まり、変容していくプロセスがある。そして、それを理解するためにはヨーロッパの「階級」、アメリカの「人種」、アフリカや中南米、そしてアジアにおける「植民地」やその独立と、そこで生じたそれぞれの政情不安や経済格差、あるいは社会的・文化的な問題を知らなければならない。「ロック」「パンク」「レゲエ」「ラップ」、あるいは「フォルクローレ」やアフリカの音楽………。今聴いている音楽を話題にしようとすれば、必然的に、話は世界中を駆けめぐることになる。
・100人を超える学生に、急ぎ足で話したから、どこまで伝わったのか不安があった。で、最後にした試験の答案を読んで、何とも言えない徒労感に襲われた。答案の多くは、設問にあわせて授業で話題にした概念や出来事、あるいはミュージシャンや歌などを書き込んで文章化したものだが、そのほとんどが、まったく実感を伴っていない。自分が好きで聴いている音楽の背景や歴史を知ることで、何か驚きや発見があったはずだし、また何よりそれを見つけてほしかったのだが、そんなことを感じさせる答案はほとんどなかった。
・選択問題の中に「私にとって音楽とは何か」という問を入れたら、五問あったにもかかわらず八割ほどがこれを選んだ。そしてその文章のほとんどが「私にとって音楽は空気(水、食事………)のようになくてはならないもの(あたりまえのもの)」という書き出しで始まっていた。何という画一化!と呆れたが、考えさせられたのは、そんな音楽に何の思いも、こだわりも、疑問ももっていないということだった。彼や彼女たちは音楽を水や空気や食事にたとえたが、それがなくなったときに、水や空気や食事のように、音楽に飢えることがあるのだろうか。なければないで忘れてしまうのではないか。そんな疑問を感じてしまった。
・音楽はどこのものでも、どんな時代のものでも聴くことができる。しかもどこで何をしていても聴取は可能だ。しかし、そうやって聴く音楽から何を感じとっているのか。まるで空気のようにそこにあるからたまたま聴いているだけというのは、実際には何も聴いていないのとおなじことではないのか。音楽は何より感覚に訴えるものだが、満ちあふれた音楽が感覚を麻痺させている。そんな現実を目の当たりにした思いだった。
・場所感、そして時代感の喪失。たぶん、自分が今どこで何をして生きているという感覚も、他者感も希薄なのだと思う。だからこそ、自分探しの歌を聴きたくなるのか。しかし、あゆにもミスチルにもゆずにも、その答えなどはない。そのことをどうやって、授業という場で話題にするか。大きな宿題が残されてしまった。

2005年1月18日火曜日

2004年度卒論集 『何とも純な学生たち』

 

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1「書いてはみたけれど」 …………………………森なつき
小津安二郎監督作品にみる日本人の機微
2.「飲む前に読〜む」………………………………椴谷祐紀
3.「東京都の道路事情からみた都市交通論」………重竹和宏
4.「ドクターキリコの虚実」………………………同免木誠
5.「スポーツにみる人間の攻撃性について」………今井拓哉
6.「デジタル機器の発達と音楽著作権問題」………徳留康矩
7.「ペットブーム論…」……………………………菅谷美和
8.「ファッション・ブランドに魅せられる人々」………津田早
9.「ドラえもん論」…………………………………増田奈保子
10.「韓国の大衆文化と日本」 ……………………八卷瞳

2005年1月11日火曜日

詐欺メールにご用心!

 ジャンクメールはじゃまくさいが、害があるというほどのものではなかった。ところが、去年の後半から、いかがわしい、危なそうなものが目につきはじめた。「オレオレ詐欺」「振り込め詐欺」などが話題になって、携帯や固定電話に注意が促されたが、ネットのメールでも結構ある。


一つは相変わらずの「出会い系」や「アダルト」サイトからのものだ。ただし、一見、パーソナルなメールのようにしてやってくる。「ホームページ更新しました」「ご無沙汰してます」「この前は楽しかった!」といったタイトルだと、ついつい開いてしまいがちになる。即削除とならないための工夫で、敵も然る者だが、そんなことでおもしろがってばかりはいられない。


僕のメールには、学生からのレポートや論文の貼付メールがしょっちゅう来る。特に年末から1月にかけては数が多い。それをうっかり削除できないから注意するのだが、中にはタイトルなしで差出人も不明瞭なものが少なくない。とりわけ困ってしまうのが留学生からのもので、海外からのジャンクメールと見分けがつけにくい。だから、それがホットメールだったりすれば、確実に即削除!ということになってしまう。


実は、暮れにやった大学院の集中講義でも、事前に提出を求めたレポートがなかなかそろわなかった。大学院には韓国や中国、台湾、そしてヴェトナムからの留学生がいて、学生の半数以上に達している。学生には大学からアドレスが交付されていて、それを使って出してくれたらほとんど問題はないのだが、自分のパソコンを持たない学生は、どうしてもインターネット・カフェを利用することになる。


届いたレポートには受けとり確認の返事を出すから、それがない学生は、ぼくのところに再送しなければならない。しかし、その問い合わせのメール自体がまた削除されてしまうから、今度は大学院担当の職員さんのメールを経由して提出ということになる。タイトルをきちんと書き(できれば日本語)、差出人が相手にわかるように明確にして、自分のパソコンがなければ、できれば大学内から出す。学生たちにはメールの現状を説明して気をつけるように言うけれども、それですぐ改善されるわけではない。


ところが、そういう無自覚な学生からのメールがある一方で、知人や友人を装ったメールが頻繁にやってくる。あけると「30代の独身女性です。あなたにセックス・フレンドになってほしいと思い、メールを差し上げました」などといった文面が出てくる。会社の社長だったり、裕福な主婦だったりして、お金も提供するなどと書いてある。うっかり返事を出すと、どうなるのか。やったことがないからわからないが、メール当てに金銭の請求書が届いたりするのかもしれない。


「2ch」の詐欺対策のスレッドをみると、届いたメールにあったサイトに接続した途端に「会員の手続」完了、などと表示されたりするものがあるようだ。放っておけばどうということもないものだが、そこで慌てて、「会員などになるつもりはない」とか「入会手続の解約」などを申し出るメールを出すと、まんまと敵の罠にはまってしまうことになる。


「詐欺」はコミュニケーション的にはきわめておもしろいという行為だと思う。「フィクション」を作りあげて、相手には、それが「現実」だと思いこませる行為で、嘘とバレないためには、できるだけ相手をその気にさせたり、パニック状態にする状況を用意しなければならない。「娘さんが交通事故を起こして、示談金をすぐに被害者に払う必要がある」などと不意に言われれば、誰でもドキッとして冷静さを保てなくなってしまう。そこにつけ込んでますます不安を増幅させる。「不倫」の誘いや「Hビデオ」に代表される「欲望」のくすぐりとあわせて、「詐欺」には「欲望」と「不安」の喚起が必須なのである。


こんな「詐欺行為」がたとえば中越地震の被害者にも襲いかかったというニュースがあった。あるいはスマトラ沖地震・津波で家族を失った子どもたちを、騙して売り飛ばす事件も頻発しているようだ。泣きっ面に蜂どころではない、ひどい行為だと思う。「倫理」も「ヒューマニズム」もあったものではない。そんな風潮に「いやーな世の中になった」とうんざりしてしまう。だから余計に、毎日飛びこんでくるジャンクメールには、必要以上に嫌悪感を持ってしまうのかもしれない。


けれどもまた、最近つくづく思うのは、テレビでくりかえし流されるCMも、「欲望」と「不安」の喚起を目的にしていて、しかもそれが大手を振って行われ続けているということだ。特に保険会社のCMはしつこくてひどい。CMが詐欺と思われないのは、単にそれが合法のものとして認められているにすぎないからであって、やっていることはコミュニケーション的には同じことなのである。きっと、あくどい詐欺が横行する現状は、毎日テレビを見て、そんな合法的な詐欺に毎日晒されている状況と深いつながりがある。そんな広告論を書いてみたいのだが、残念ながら忙しくて、いろいろ調べたり、考えたりする余裕が全然ない。

日時:2005年1月11日

2005年1月1日土曜日

龍ヶ岳とダイヤモンド富士


・去年のダイヤモンド富士に続いて今年も、と考えました。去年は甲府の南にある増穂町高下に出かけましたが、今年は本栖湖近くの龍ヶ岳に登りました。日の出時間は7時50分。6時過ぎに家を出て、6時半過ぎから登りはじめました。すでにあたりはうっすらと明るく、登山をする人たちもちらほら見かけました。30分ほど登ると眼下に本栖湖が見え、その向こうに朝焼けの南アルプスが眺められました。 
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・ところが、きれいな青空だったはずが、急に雲が出はじめ富士山を隠すようになりました。まさか、と思いましたが、雲はますます厚く黒くなるばかり。展望台に着いて日の出の時間を待つ頃には、あたりは一面、雲の海になってしまいました。

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・残念ながら、今年はダイヤモンド富士の撮影に失敗。まったく予想もしなかった結果でしたが、富士山の西側はよく雲が出るところで、龍ヶ岳から南一帯は朝霧高原と呼ばれています。そのことに気がついたのは後の祭り。骨折り損のくたびれもうけでしたが、早朝の景色は、それなりに美しいものでした。

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・上左は龍ヶ岳の頂上、下山の時になってきれいに見えはじめました。また右上は西湖の十二ガ岳。ここまでは雲は届かなかったようです。それにしても富士山周辺の天気は微妙です。もしきれいに撮ることができれば中上のようになるはずでした。

2004年12月30日木曜日

目次 2004年

12月

30日:目次

28日:内田樹『「死と身体』( 医学書院)

21日:Merry X'mas!!

14日:デブラ・ウィンガーを探して

7日:冬の収穫

1日:柏木博『「しきり」の文化論』

11月

24日:早川義夫『言う者は知らず 知る者は言わず』

16日:Love on line

8日:何でブッシュなの?

1日:井上俊『武道の誕生』吉川弘文館

10月

26日:台風の残したもの

19日:REM, Tom Waits and Mark Knopfler

12日:テレビ取材体験記

5日:中沢新一『カイエ・ソバージュ』( 講談社選書メチエ)

9月

28日:息子の結婚式

21日:故障で大慌て

14日:ガビ鳥と薫製

7日:鷲田清一『ことばの顔』(中公文庫)

8月

31日:"Rock against Bush"

24日:何とも奇妙なプロ野球

17日:秋田・岩手

10日:思案中

2日:三田村蕗子『ブランドビジネス』

7月

27日:河口湖も暑い!

20日:「ドニー・ダーコ」

13日:Erick Satie "Gymnopedies"

6日:Ah, Nomo!

6月

29日:佐藤直樹『世間の目』光文社

22日:庭作りを少しずつ

15日:ドミニク・モル監督「ハリー、見知らぬ友人」

8日:知人から届いた2冊の本

1日:八杉佳穂『チョコレートの文化誌』(世界思想社)

5月

25日:Lou Reed"Animal Serenade"Patti Smith"trampin'"

18日:風景が緑に変わった

11日:月尾嘉男がカヤックでホーン岬に行った

4日:布施克彦『24時間戦いました』(ちくま新書)

4月

27日:ウィルス、ジャンク、新研究室

20日:身内と世間、イラクの人質事件について

13日:"Gracias A La Vida"

5日:岩渕功一『グローバル・プリズム』(平凡社)

3月

29日:春の湖

22日:春の房総半島

15日:セディク・バルマク『アフガン・零年』

8日:斉藤環『心理学化する社会』(PHP)

1日:Youssou N'dour

2月

16日:野村一夫『インフォアーツ論』(洋泉社)

9日:マイケル・ムーア 「ボウリング・フォー・コロンバイン」

2日:氷の世界

1月

26日:年賀状の憂鬱

19日:CDの値段

12日:2003年度卒論集「教授!話が違います!!」

5日:富士を見る、富士から見る

1日:ダイヤモンド富士

2004年12月28日火曜日

内田樹『死と身体』(医学書院)

 

uchida.jpg・ぼくは、内田樹の本が出るのを楽しみにしている。彼はレヴィナスやラカンを読み解く哲学者だが、おもしろいのは、それを土台に使った皮肉で明解な世相の分析だ。
・たとえば、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)という本がある。レヴィ=ストロースの構造主義は難解で近づきにくいと言われるが、それを「みんな仲良くしようね」という仕組みの分析なのだと一言で説明する。そう言われれば確かにそのとおりで、構造主義の基本概念は「贈与」や「交換」で、ものやことばのやりとりをして人びとが争いを避け、仲良くつきあう、その社会の構造を解きあかそうとするものだ。
・彼は、難解な文章には、そうとしか書けないわけがあると言う。だから、わからないままに頭だけでなく身体で覚えるようにじっくり読み込んでいく。そうすると難しく書く理由がわかってくる。もっとも、一方で専門書には「衆知のように」とか「言うまでもなく」といったことばが多用されて、素人にはわからない話であることを気取る文章が少なくない。そしてそういうものに限って、内容は深遠でも、広大でもなかったりする。内田樹の文章はその対極にあって、難しい話をわかりやすく書く。これは本当にわかっていないと、あるいはわかろうとして苦労しないと書けない文体だと思う。
・『死と身体』は講演の記録である。私という存在、その心、あるいは脳と身体の関係、身近で一般的な他者、そして、そして死者との関係について、人びとのする常識や最近の傾向について疑問を投げかける。あらかじめ原稿を用意するのではなく、いくつかの話題だけをもって、後は聞き手の反応や自分のアドリブに任せて話を展開する。だから、話は突然飛躍するが、それがまた新鮮な印象を与えたりもする。
・若い世代の人たちにコミュニケーションが不得手な人が増えているのはどうしてか。反対に、思春期の口ごもりを特徴としていたはずの子どもたちが、すらすらと自分のことを喋ったりするのはなぜか。自分の身体に傷をつけたり、他人をとことん虐めたりする感情は何に原因があるのか。内田が力説するのは社会における「交換」の軽視、あるいは喪失である。
・人は他者と共に生きる。そしてその他者は、基本的にはわからない存在だ。わからないものは恐ろしい。だから「交換」をして敵意がないことを積極的に示そうとする。その最たるものが死者との関係で、人は死者を自覚した瞬間に、猿から人間になったはずなのである。
・わからない他者とうまく関係を持とうとするところに、コミュニケーションが生まれる。そこが軽視され、ごまかされている。何より、他者は私の中にいて、それとぶつかり、折り合いをつけるのが思春期のはずだった。関係は、わからなさとつきあうことで深まるが、表面上のパターン化されたやりとりがそれを疎外する。この本を読むと、そんな自分の、あるいは周囲の人づきあいの仕方がよく見えてくる。

(この書評は『賃金実務』12月号に掲載したものです)

2004年12月21日火曜日

Merry X'mas!!

 




2004年が終わろうとしています
今年を象徴する字は「災」
嫌なことばかりあった年として記憶にのこり
語り継がれるのかもしれません
イラク戦争の泥沼化、日本人の人質と自己責任論
猛暑、台風、そして中越地震
誘拐、殺人、放火、あるいは幼児虐待
先生の痴漢やセクハラ事件もずいぶん多かったようです
こう並べると、本当に暗くなる感じがします
そういえば、音楽もスポーツもおもしろくなかった
野茂と中田が不調で興味半減
プロ野球の身売りや合併は当然の結果ですが
旧態依然の体質や発想はなかなか改善されません

しかし
個人的にはいいこともありました
長男の結婚、次男の就職
親の責任は一応果たしたと思いました
あとは自己責任です
『<実践>ポピュラー文化を学ぶ人のために』(世界思想社)がもうすぐ出版されます
若い人たちとの仕事は大変でしたが、楽しくもありました

来年がもっといい年でありますように
Merry X'mas and Happy New Year!!