2000年1月19日水曜日

免許証更新で考えたこと

  • もう何回目の免許証更新になるのかわからないが、今回はちょっと面倒だった。すでにこのHPでも書いたが、職場が変わったのにそのまま京都に住み続けて、毎週、新幹線で往復した。しかも、夏休み前に河口湖に家を買って、秋には住民票を移した。ぼくの誕生日は1月だから、免許証更新の通知は11月の末に来たが、当然、更新する場所は山梨県である。京都に帰らずに、週末を河口湖で過ごす週を作らねばならない。追手門学院大学で4年生が論文を提出するから、そのための時間も作らなければならない。やれやれ........。
  • で、最寄りの警察署に行くと、特に更新手続きのための建物や部屋があるわけではない。イスがあって通路を挟むような位置で提出用の写真を撮っている。ぼくは持参したから、写す必要はない、と思った。書類に必要事項を書き込み、例によって「安全協会費」は払わないと答えて提出。視力検査をした後、ついたてで仕切られた場所に入れられ、30分ほどビデオを見せられた。一緒にいた人は5人ほど。免許証用の写真をいつまでたっても撮らない。いつも京都の伏見の試験場でやっていた更新手続きとはずいぶん違うなと思っていたら、若い婦警さんが「ご苦労様です。免許証は1月6日から13日の間に取りに来てください。」と言って、終わってしまった。
  • 「え、即日交付じゃないの?」「じゃ。写真はいつ撮るの?」と尋ねたら、「写真は提出したのを使います」と言った。ぼくは書類に張りつけるだけだと思ってモノクロ写真を提出したのだが、受付の人も、「どのくらい前に写されたものですか?」としか聞かなかった。もう一回来なければならないのはえらい面倒な話で、しんどいなと思ったが。同時に、おもしろい免許証ができることが楽しみになった。
  • 免許証の更新に行ったことのある人なら誰でも経験すると思うが、試験場の職員の対応はひどく高飛車である。何のためかいまだにわからない「安全協会費」なるものを要求される。払わないと言うと、とたんに不快な顔をしたり、態度がぞんざいになったりする。以前は確かタイプ料が含まれるといった説明をしていて、ぼくは一度喧嘩をして、手書きの免許証を作ったことがある。パソコンの普及や免許証作成法の改良でそれはなくなったから、ますます払う必要はないはずだが、ほとんどの人は素直に2500円出している。
  • 今回の更新で気がついたのだが、即日交付をする所では、提出した写真は直接免許証に必要なものではない。だとしたら、4x3cmにほんのちょっとずれただけでだめだと言ったり、色合いがどうの、照りがどうのといってもう一回その場で写真を撮らせるのはどういう理由なのだろうか。使いもしない写真にいろいろ文句をつけて、写真代までふんだくろうと言うのだろうか。きっとそうだと考えはじめたら、あらためて、警察のやり方に腹が立ってきた。
  • 大きな試験場の周辺には今でも代書屋さんが店を構えていて客引きをやっている。本当はもう必要のない仕事になっているはずだが、相変わらず商売が成り立っている。一番の収入源は「写真」なのだ。田舎の警察署にはもちろん、代書屋はいない。更新専門の写真屋もない。だから、係員はあれこれうるさいことは言わない。即日交付でないのは不便だが、混まないし、近くにあるから、時間も自由が利く。ぼくは田舎に住む利点をまたひとつ見つけた気がした。
  • バイクや車のナンバー・プレートの変更や、新車の購入で、ここのところ何度か、直接陸運局に出向いたり、その代行費を払ったりもした。その際にも感じたのは手続きの複雑さ、必要書類の多さだった。もっと簡略化できるはずだが、それでは、行政書士の仕事が減ってしまう。企業の合理化は深刻で、行政も本格的にやらなければならないはずだが、不合理なシステムを大いばりでやっている。様々な手続きを経験してみると、そんな状況がよく見えてくる。そんな時代の流れにあまりに鈍感だから、神奈川県警に代表されるような不祥事が次々と発覚してくるのだろう。
  • これはあまり言いたくないことだが、ぼくの免許証は今回もゴールドにならなかった。なるはずだったのだが、中央高速で更新の少し前にスピード違反で捕まってしまったのだ。実は、これにも腹が立っている。中央高速は80km規制だが、車は走行車線でも100km近くで流れている。ぼくは追い越し車線を前の車について走っていた。たぶん110kmぐらい。で、後ろから迫ってくる車に気がついて、ちょっと加速して、走行車線に避けた。そうしたら、その追ってきた車がサイレンを鳴らしたのだ。覆面である。汚い!
  • もちろん謝るなんてことはせず、せこいやり方に文句を言ったが、違反は違反の一点張り。裁判でもと思ったが、引っ越し前に何度も出むかなければならない。せめて指紋は押さないようにとハンコを出したが、戸籍は渡邉だから、渡辺のハンコではだめと言う。じゃー、サインはと言ったがもちろんだめ。サインではなくハンコが意味を持つという制度。実はこれもおかしな話なのだが、いつまでたっても改まる気配がない。
  • ぼくは4月から中央高速で通勤する。もう捕まってたまるかと思うのは当然だが、何とか仕返しできないものかと、その方策を考えている。で、今一番思っているのは、手続きなどで、不合理なところ、理由のわからないところがあったら、声を上げること。処遇に不満があったら泣き寝入りせず、裁判にでももっていくこと。一番悪いのは、お上のやることに黙って従う態度である。警察やお役所のみなさん、制度や慣例を盾にとって居丈高に振る舞っていると、同じ理屈でしっぺ返しをくいますよ。
  • 2000年1月12日水曜日

    清水学『思想としての孤独』講談社

  • 「孤独」は今一番嫌われることばのひとつかもしれない。群れること、みんなの中に埋もれること、情報をやりとりすること。こんなことが一番の関心事で、それは必ずしも若い世代だけにかぎった傾向ではないようだ。どうして「孤独」はそんなに忌避されるのだろうか?
  • 確かに「孤独」には、排除される、自分の場所がなくなる、自分の存在が消えさってしまうといった側面がある。しかし、それはまた自分が自分であることを確認するためには必要な状態であるし、想像力や創造力を駆使するときにも欠かせないはずだ。自分という存在を、他者によって認めてもらう受け身的な姿勢が前者だとすれば、後者は、他者に認めさせる積極的な姿勢。だとすると、他者への自己の提示のスタイルが受動的になったということなのだろうか?
  • 『思想としての孤独』のキイワードは「透明」と「分身」。透明人間は、どこにいても誰からも気づかれない存在、そして分身は自分がいるはずの場を占有するもう一人の「私」、あるいは「他者」である。
  • 透明人間には誰もが一度はなってみたいと思う。自分の存在を知られずに他人たちを眺めることができる。覗きや盗聴に対する誘惑。けれども「透明」はまた、その場にはいてもけっして参加することができないし、見ることはできても見られることのない存在でしかない。それに気づいたときの「孤独」は、他人から見られることで感じる不安や煩わしさと裏腹である。
  • 「分身」は、自分のコピー、あるいは代役である。これもまた、自分がもう一人いたらどんなにいいかと空想するものだが、同時に、自分の場所や自身自体を奪いかねない存在になる。かけがえのないはずの「私」。「分身」はそれを代行する。そう考えたとき果たして「分身」は便利な相手か、あるいは恐怖の対象だろうか。
  • この本はこのような軸をもうけて、主に文学作品を題材にしながら考えている。読みこなすにはかなりの文学的な知識が必要だが、しかし、その例を日常的なものに置き換えることは容易だ。というよりは、ぼくは読みながら、勝手に一人歩きをはじめる自分の想像力をおさえることができないほどだった。読む私と、勝手に想像の世界をうろつきはじめる私。まるで、透明人間のように、あるいは分身のように。
  • 例えば、雑踏の中で誰もが暗黙のうちに示す「無関心」。満員電車の中で押しくらマンジュウをしていても、自分をそこにはいない人のように振る舞う人たち。あるいはエレベーターの中で感じる息が詰まりそうな沈黙に耐える人たち。もちろんだからこそ、また誰もが匿名の存在として好き勝手ができることにもなる。「匿名」は「透明」、あるいは「分身」?
  • 家庭で、学校で、あるいは職場で、確かな位置を占めていたはずの「私」。ところが、いつの間にかその場所がなくなってしまったり、他の誰かに占拠されたりする経験。離婚、失恋、いじめ、左遷、リストラ………。「分身」には例えば二股かけた恋愛や妾さんのいる別宅といった不純な夢を、また多様な能力をもつマルチ人間を空想したくなるという側面があるが、また、分身によって消される「私」という悪夢もある。
  • もう一つ「死」の問題。著者が引用するP.オースターの『孤独の発明』を紹介しよう。
    私は思い知った。死んだ人間の遺していった品々と対面するほど恐ろしいことはない、と。それらは手で触れられる幽霊だ。もはや自分が属していない世界のなかで生きつづける責め苦を負った幽霊だ。たとえば、クローゼットいっぱいに入った衣服。
  • 「孤独」を「透明」と「分身」によって考える。それはきわめて社会学的な発想で、しかも何と想像力を刺激するものか。ぼくはこの本を読みながら、そのことをくり返し確認した。だからだろうか、読み進むうちにこの本の題名に違和感をもちはじめた。この本は断じて「思想」などではない。強いていえば「物語としての孤独」、あるいはもっと率直に「透明」と「分身」。
  • 本の著者はその中身を作る。題名や装丁やキャプションを考えるのは編集者の仕事だ。一般的には本はそんな分担作業で作られる。編集者は黒子、つまり透明人間で、作者や本の世界を目立たずに際だたせる役割をもつ。この本の表紙には次のようなキャプションがつけられている。「自主独立の近代人『ロビンソン・クルーソー』の末裔である私たちが彷徨う、『孤島』と『砂漠』が充溢する都市の風景」。「彷徨う」とか「充溢する」という大げさなことばを使って、いったい何が言いたいんだろうか。作者とはまったく違う顔をもった出しゃばりな分身。
  • とは言え、「思想」つまり「孤独」の積極的な評価の部分が薄いことは、ぼくにとって、ものたりなさを残した。「戦略としての孤独」とまではいわないが、孤独で何が悪いといった一面があってもよかったのにと思う。
  • 2000年1月5日水曜日

    「御法度」 監督:大島渚 音楽:阪本龍一


  • 映画館で映画を見たのはちょうど1年ぶり。見たい映画がなかったわけではないが、時間がなかったし、あってもその気にならなかった。本当に久しぶりだが、特に『御法度』が見たいわけでもなかった。何のことはない。友人から優待券をもらったのである。冬休みだし、使わなければもったいない。で、最近できたジャスコに行くことにした。ここには、映画館が10館近くもある。国道1号線に面してはいるが、淀競馬場近くで田圃以外は何もなかったところだ。一度出かけてみたいと思っていた。駐車場や建物が平面で広がる巨大なショッピング・モール。まるでアメリカである。そこで、本当に久しぶりに、チャンバラ映画を見た。
  • 『御法度』は新撰組の話である。松田優作の息子が演じる美少年が組に入ってくると、男たちは、何となく変な気持ちに囚われはじめる。誰もが「そっちの気は拙者にはない」と口にするほど気がかりな存在になる。最初に関係を持ったのは、一緒に入隊した若い浪人(浅野忠信)。次に別の男が言い寄るが、関係した後に惨殺される。隊の乱れを案じた土方(ビートたけし)が、少年に女の味を教えてやれと部下(トミーズ雅)に命ずる。そこで島原へ行こうとしつこく勧めるが、少年は取り合わない。やっとその気にさせてつれて行ったのに、太夫(神田うの)に指一つ触れずに帰ってくる。ところが誘った侍が襲われて、危うく斬られそうになる。犯人は最初に関係を持った男。そう判断した近藤勇(崔洋一)は美少年自身に制裁を命ずる。土方は少年の気持ちをくんで「むごい」とつぶやく。しかし、少年は顔色も変えず承諾する。
  • 美少年は京都でも有名な越後屋の息子である。なぜ新撰組に入ったのか、その理由はわからない。しかし、彼の周囲で次々人が斬られ、やがて、そのほとんどが少年によるものであることがわかってくる。男を虜にしておいて惨殺する。その恐ろしさに早くから気づくのは、やはり美少年の剣士だった沖田(武田真治)である。
  • はっきり言ってそれほどおもしろいと思わなかった。病気から立ち直った大島渚がどんな映画を作ったのか、ちょっと関心があったが、拍子抜けという感じだった。彼はこの映画で何が言いたかったのだろうか。何を表現したかったのだろうか。
  • ただキャスティングはおもしろかった。崔もたけしも監督である。二人とも大島が休んでいる間に、日本を代表する映画監督になった。黒沢監督が「影武者」を撮ったときにコッポラやルーカスやスピルバーグが集まって支援した。そんな関係を連想した。
  • もう一つ、新撰組の衣装。今までのものとは全然違っていて格好いい。阪本龍一の音楽はほとんど印象に残らなかったが、サウンドは地響きがするような効果を使って新鮮だった。剣道の稽古場では、見守る土方を映しながら、木刀の音が背中から聞こえてきた。カラーでありながら、モノクロのようなトーン。それに、無声映画の頃に使われた字幕の手法。映画としての斬新さは十分に感じられた。その意味ではおもしろかったと言える。
  • 1999年12月31日金曜日

    目次 1999年

     

    12月

    31日:目次

    22日: Merry X'mas

    15日:佐藤正明『映像メディアの世紀』(日経BP社)

    8日:アジアのロック 黒名単工作室『揺籃曲』

    1日:イーヴ・ヴァンカン『アーヴィング・ゴッフマン』せりか書房

    11月

    24日:オフ・シーズンの野球とベースボール

    16日:「恋愛小説家」"As good as it gets"

    9日:秋の風景

    2日:広告依頼とDMについて

    10月

    26日: 賀曽利隆『中年ライダーのすすめ』平凡社新書

    20日:Sting "Brand New Day",Steave Howe "Portraits of Bob Dylan"

    13日:「社会学」のレポートを読んでの感想

    6日:最近のテレビはおかしくありませんか

    9月

    28日:ロボット検索について

    21日:『スポーツ文化を学ぶ人のために』の紹介

    15日:田家秀樹『読むJ-POP』徳間書店

    1日:河口湖で過ごした夏休み

    8月

    25日:郭英男(Difang)Cicle of Life

    18日:Woodstock Live 99

    11日:F.キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』筑摩書房

    4日:富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣

    7月

    28日:メールを通じて届いたミニコミなど

    22日:Soul Flower Union "Ghost Hits93-96" ,"asyl ching dong" "marginal moon"

    15日:ゴールと同時にギックリ腰、前期を振り返って

    7日:中川五郎『渋谷公園通り』(KSS)『ロメオ塾』(リトル・モア)

    6月

    29日:"The People VS. Larry Flynt" "The Rainmaker" "Wag the Dog"

    22日:ゼミ同窓会

    15日:新しい職場で感じたこと

    8日:村上春樹『スプートニクの恋人』講談社,『約束された場所で』文芸春秋

    1日: Van Morrison "Back on Top", Tom Waits "Mule Variations", Bruce Springsteen "18 Tracks"

    5月

    21日:加藤典洋『可能性としての戦後以後』(岩波書店) 『日本の無思想』(平凡社新書)

    14日: 場所と移動

    6日:野茂の試合が見たい!!

    4月

    28日: Alanis Morissete (大阪城ホール、99/4/19)

    20日:M.コステロ、D.F.ウォーレス『ラップという現象』(白水社)ジョン・サベージ『イギリス「族」物語』(毎日新聞社)

    13日:職場が変わったことへの反応など

    3月

    24日:バイクで京都から東京まで

    9日:ジム・カールトン『アップル 上下』(早川書房)

    2日:石田佐恵子『有名性という文化装置』勁草書房

    2月

    25日:崔健『紅旗下的蛋』

    17日:ABCラジオ体験

    10日:『夫・山際淳司から妻へ』 (BS2)

    3日:A.プラトカニス、E.アロンソン『プロパガンダ』〔誠信書房)

    1月

    27日:シンガポールとフィンランドからのメール

    14日:R.E.M. "UP"

    7日:ポール・オースター『偶然の音楽』新潮社,『ルル・オん・ザ・ブリッジ』新潮文庫

    1999年12月22日水曜日

    Merry X'mas




  • とにかく忙しい1年間でした。移動人間と化し、新幹線と車で3万kmを走破。何とか無事に二つの大学での勤めを済ませました。こんな生活はもうこりごりですが、おもしろい経験でもありました。東京と大阪の学生と同時につきあったこと。新幹線で見た人間模様と車窓の風景。それに、河口湖で過ごした夏休み。来年は、腰を落ち着けて、自分の仕事をやりたいと思います。

  • 追手門で受け持った4年生のゼミは、例年になくまとまりがあって、3月の三田と8月の河口湖と、二度の合宿をやりました。で、『林檎白書』第9号の完成。論文発表会もコンパも年内に済ませて、一応さよならです。ただ一つ気になるのは、院生の丁さん。修論は今年は無理なようです。

  • 東京経済大学ではゼミを三つ受け持ちました。まじめな学生が多かったように思いましたが、同時に、自発的にではなくやらされているという感じもしました。来年は、東経大の学生の書いた卒業論文とつきあうことになります。おもしろいものがたくさん出てくることを願います。



  • "X'mas Bell and Candle" by Yoko Hasegawa

    1999年12月15日水曜日

    佐藤正明『映像メディアの世紀』(日経BP社)

     

    ・ビデオについては腹立たしい思い出がある。下の息子が生まれたときに、僕の両親が出たばかりのソニーのベータムービーをプレゼントしてくれた。孫を映して送れというということだった。めずらしもん好きの僕は、二人の息子をせっせと撮った。1981年だったと思う。当然ビデオレコーダーもベータを買った。

    ・品質には不満はなかった。持ち運びは楽ではなかったが、従来の機種に比べたら雲泥の差があった。けれども、ビデオは徐々にVHSが体勢になり、買い換えの時期にはベータは消えてなくなっていた。2台目のカメラを8ミリ、レコーダーをVHSにせざるをえなくなる。互換性はもちろんないから、必要なものは全部ダビングしなければならなくなった。

    ・これが教訓になったせいか、レコードからCDに乗り換えるのはずっと後になった。けれども、マッキントッシュを見たときには、日本語がうまく使えないとか、PCとは互換性がないという批判や悪口があったにもかかわらず、100万円以上の金をはたいてアメリカからの並行輸入品を一式買ってしまった。おかげで、ずいぶん楽しい世界を知ることができたが、互換性のないこの道具にまつわる悩みはビデオ以上だった。

    ・佐藤正明の『映像メディアの世紀』はVHSを開発したビクターの高野鎭雄の物語である。高野は、テレビの開発者として有名な高柳健次郎がいた浜松高等工業(静岡大学)の出身だが、彼が入ったときには高柳はすでに退官していた。それが、就職したビクターで偶然再会する。高柳の役目は当然、テレビの商品化で彼は同時にビデオの開発も目論んでいた。ビデオは業務用から始まり内外のメーカーが様々な方式を開発するが、家庭用に焦点が合うのは 70年代に入ってからで、その主導権争いをしたのは、ソニーのベータとビクターのVHSだった。高野はそのVHS開発の責任者になった。

    ・この本を読んでいると、新技術の開発と普及、そして規格統一といった動向が、技術というよりは、陣地獲得の戦術合戦であることがよくわかる。高野は技術者である以上にすぐれた戦略家だった。ビクターは松下の傘下にあって、その意向を気にしつつ、また独自性も出さなければならない苦しい状況にあった。かたやソニーには技術とアイデアに絶対的な自信を持つ先進的な企業というイメージが定着していた。松下を味方につけ、その他の家電メーカーを結集させるにはどうしたらいいか。高野は一人知恵を絞り、企業との交渉や連絡に奔走する。

    ・国内メーカーの多くを味方につけたVHSはアメリカを松下が、そしてヨーロッパをビクターが制圧する。ベータとVHSの試作機第1号が1972年で、勝負に決着がついたのは1988年。その年ソニーはプライドを捨ててVHSを自社製造し始めた。ビクターの勝利だが、『映像メディアの世紀』は一企業の成功よりもっと大きな野心、つまり統一規格を作ることに懸命だった高野鎭雄を描き出す。600ページを越える壮大な物語で、僕は例によって新幹線にも持ち込んで一気に読んでしまった。

    ・家電や自動車など、20 世紀の後半はこと技術については間違いなく日本の時代だった。そこで働く人たちの生き生きした姿は、この本にはもちろん、ほかにもいくつものノンフィクションの作品になって描き出されている。僕はそんな話が好きだが、いつも同時に感じるのは、その世界のほとんどが男たちだけによって作られること、あるいはハードの話で終わっていて、ソフト面への応用となると、外国の話ばかりになってしまうということである。

    ・高野鎭雄はビデオの世界規格を達成したが、彼には家でビデオを楽しむ時間がなかったし、あったとしてもそうする気もなかった。ビデオに捧げた人生はまた、家にはほとんど戻らない20年の生活だった。ビデオ・カメラで子どもを撮り、マッキントッシュでニュースレターを作ったぼくの20年とはずいぶん違う生き方だなと思った。

    ・もちろん、ハードを開発することと、その新しい道具を使ってソフトを開拓することはまったく別の世界だし、それらを買って楽しむ世界もまた違ったものである。けれども、日本がハードばかりに突出したいびつな国であることも間違いない。ハードからソフトへの転換。それはたぶん、企業戦士が仕事から生活へ目を向けること、女たちがもっともっと仕事の第一線に参加すること、あるいは若い世代がベンチャー・ビジネスに野心を持つことといった変化を土台にしなければ可能性も見えてこないにちがいない。ハードの開発はもちろん大事だし、おもしろいことを否定する気もない。けれども、ぼくは日本人は、もっともっと、それを使って何かを作りだすこと、あるいは生活を楽しくすることに関心を向けるべきだと思う。

    1999年12月7日火曜日

    黒名単工作室『揺籃曲』


    rock21.jpeg・ここのところ、日本やアジアのポップやロックについての本をいくつか読んだ。おかげで、関心が欧米からアジアに向いている傾向や理由がよくわかった。たとえば『21世紀のロック』(陣野俊史編著、青弓社)。ほとんどの章はこの種の本にありがちな、わかる人にしかわからないというレトリックで、今ひとつだったが、一つだけ視野の広がりをもたらしてくれる章があった。小倉虫太郎の「越境する音楽」。中国と台湾の民主化と、同時期に現れたロックを中心にするポップ・カルチャーを紹介したものである。
    ・中国の天安門事件と台湾の民主化運動が新しい文化的な流れを生んだことは知っていた。たとえば中国のロックでは崔健、台湾では『非情城市』などの映画。「越境する音楽」には、二つの民主化運動の経緯とロック音楽の登場の様子が詳しく書かれていて、とても興味深かった。筆者は1990年から4年間、台湾に滞在していたようだ。


    blacklist.jpeg・忘れてならないのは、単なる流行歌に終わらない実験的な音楽を作っていたグループによって、台湾語のポピュラーソングがラディカルな社会批評の手段となり、なおかつ、中華圏においてはじめてと言っていい、音と言葉の結びつきにかかわる新たな実験の領野を開くことになったということである。そのグループの名前は「黒名単工作室」、直訳すれば「ブラックリストに載った者たちによる実験室」というパンチのきいたものだった。pp.204-205

    ・ぼくは興味を感じてさっそく探したが、残念ながら、ここで紹介されていた『抓狂歌』は見つからなかった。しかし、手に入れた1996年に発表された『揺籃曲』からも、たとえば、プログレがあったかと思うと、郭英男のような台湾先住民族風のもの、あるいは、歌謡曲とさまざまで、ことばも中国語や英語などがまじっていた。英語で歌われている「新聞時間」(News Time)には、戦争に巻き込まれる若い人たちの苦悩や世界の警察を自認するアメリカへの批判、嘘に満ちた世界への否というメッセージが率直に表されている。サウンドも含めて、中国の崔健や黒豹とはまた違う独特の世界を作り上げていておもしろいと思った。

    asia1.jpeg・松村洋の『アジアうた街道』は雑誌に連載したエッセイを集めたものだが、中国はもちろん、タイやマレーシアやイランやインド、そしてインドネシア、あるいは沖縄や在日のなかに新しく生まれた音楽を紹介していて、ここでも、聴いてみたいミュージシャンを何人も教えられた。その多くが日本でもコンサートをやっていることなどを知ると、今さらながらに、ぼくのアンテナが太平洋の向こうばかりに向けられていたことを思い知らされる。
    ・ たとえば沖縄のラテン・バンド「ディアマンテス」。ボーカルのアルベルト城間はペルー生まれの沖縄三世で、東京では相手にされずに、沖縄で音楽活動をはじめた。他にも、在日コリアンを中心に結成された「東京ビビンパクラブ」、タイの社会派ロックバンド「カラバオ」、マレーシアのザイナル・アビディン........。
    ・松村洋は、日本にいながらにして手に入る世界中の歌と、欧米以外の外国(人)に関心を向けない日本人の対照を指摘する。テクストとしての一つの歌と、一人のミュージシャン。そこから、彼や彼女が背負うさまざまなコンテクストへと向けるまなざしの大切さを主張する。まだまだぼくには知らない世界が多い、とつくづく感じてしまった。さっそくまたCDを探しに行こうと思う。