2000年12月31日日曜日

目次 2000年

12月

30日:目次

25日:Tracy Chapman "Telling Stories"

18日:井上俊『スポーツと芸術の社会学』( 世界思想社 )

11日:"花はどこへ行った"

4日:H.D.ソロー『ウォルデン』(ちくま学芸文庫)から その3;「孤独」について

11月

27日:BBはまだ当分だめのようだ

20日:やれやれ、で秋も終わり

13日:村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』( 文春新書 )

6日:M.Knopfler, The Wall Flowers

10月

30日:H.D.ソロー『ウォルデン』(ちくま学芸文庫)から その2;「生きること」について

23日:釣りとコスモス

16日:オリンピック・野球・サッカー

9日:AOL、NTT、Amazon、そしてMS

2日:井上摩耶子『ともにつくる物語』 (ユック舎)

9月

25日:H.D.ソロー『ウォルデン』(ちくま学芸文庫) その1

18日:嘉手苅林昌「ジルー」

11日:"Buffalo66'" "Little Voice"

4日:夏の終わりに

8月

28日: 鈴木慎一郎『レゲエ・トレイン』青土社 R.ウォリス、C.マルム『小さな人々の大きな音楽』現代企画室

21日:ジャンク・メールにつられて

14日:オリンピックのテレビはどうしようかな?

8日:HANABI! はなび!! 花火!!!

1日:Neil Young "Silver and Gold" Eric Clapton "Riding with the King" Lou Reed "Ecstasy"

7月

24日:伐採と薪割り

17日:多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』他

10日:掲示板を作ろうかな?

3日:桑の実と木工

6月

26日:中山ラビ・コンサート 吉祥寺 Star Pine's Cafe 6/18

19日:村上龍『共生虫』講談社 村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』新潮社

12日:高速道路で聴く音楽

6日:テレビと広告

5月

29日:携帯とメール

22日:仲村祥一『夢見る主観の社会学』世界思想社

15日:森の生活

8日:Buena Vista Social Club Force Vomit"The Furniture goes up" 猪頭2000 Fiona Apple"When The Pawn"

4月

27日:『うなぎ』今村昌平監督、役所広司、清水美砂 『菊次郎の夏』北野武監督

20日:プロバイダについてなど

12日:春を見つけた

5日:話すことと書くことの関係

3月

29日:鈴木裕之『ストリートの歌』世界思想社

22日:The Thin Red Line

15日:第3ステージのスタート

8日:Stereophonics "Word gets around" "Performance and cocktail"

1日:火に夢中 G.バシュラール『火の精神分析』せりか書房

2月

23日:最近見た映画

16日:インターネット・ビジネスって何?

9日:ポール・オースター『リヴァイアサン』新潮社

2日:冬の富士

1月

26日:忌野清志郎『冬の十字架』、頭脳警察『1972-1991』

19日:免許証更新で考えたこと

12日:清水学『思想としての孤独』講談社

5日:「御法度」

2000年12月25日月曜日

Tracy Chapman "Telling Stories"

 

・トレーシー・チャップマンのニュー・アルバムは"Telling Stories"という曲から始まっている。いつもながらの静かな歌い方とシンプルなサウンドで、いつもながらに語ってくれるのは、本当に深みのある「物語」だ。彼女のような人を吟遊詩人というのだなと、つくづく思った。

あなたの記憶のページの行間にはフィクションがある
書くのはいいけど、物語りじゃないなんてふりをしないで
あなたと私のあいだにはフィクションがあるんだから
あなたと現実のあいだにはフィクションがある
ありきたりでない毎日を生きるために何でも言えるしできるけれども
あなたと私のあいだにはフィクションがある
………
でも、時には嘘が最良のことだっていう時もある
"Telling Stories"

・現実は虚構とは違うけれども、現実はまた虚構なしには成り立たない。私という存在、私とあなたの関係、そして社会や世界の意味など、あらゆる現実は虚構によって支えられている。けれども、私たちはそのことを忘れるし、隠そうとする。現実と虚構の関係は、たとえば社会学でも一番の根源的なテーマだが、そんな問題をさらっと歌われると、今さらながらに歌の強さを思い知らされてしまう。トレーシーの声は穏やかだが、それだけに、聞くものの心の奥深くに訴えかけてくるようだ。


・トレーシーは1988年にアルバム・デビューをした。その時の一曲目は「革命について語ろう」で「奴らが革命についてささやきあっているのを知ってる?福祉を受け、失業で時間を浪費して、それでも昇進を待っている人たち。その境目の外にいる貧しい人たちよ立ち上がれ!もっともっとよくなれる。テーブルを回転させて、革命の話をしよう。」(Talkin' bout A Revolution)アルバムにある写真はまるで少女のようで、そのしずかな歌い方とあわせて、強烈な歌詞との違いに驚いたことを今でもよく覚えている。ディランのデビュー30周年記念のコンサートに出演したときにはじめて彼女を見たが、「時代は変わる」を歌う姿に、ディランの後継者という感じを一番受けた。女性であることと黒人であることが、時代の流れをいっそう強く印象づけられた気がした。そのような意識や姿勢は、彼女の出したアルバムすべてに貫かれていて、"Telling Stories"でも顕在だ。

鏡に手をふれて、表面の水を拭った
そこに映ったのは虚飾を取り去った私の素顔
お金はただの紙とインク
私たちは合意できなければ壊れるだけ
世界はどうして変わってしまったの?
太陽を作ったのは誰?
海を所有するのは誰?
私が見ている世界はバラバラに切り刻まれている
"Paper and Ink"

・ぼくは音楽雑誌を読まないし、彼女の伝記も持っていないから、プライベートなことは何も知らない。それでちっとも物足りなくない。彼女の風貌はデビュー以来ほとんど変わっていないし、声も歌い方もサウンドも同じだ。ただ違うのは歌の中身。つまり彼女が語る物語だ。それを聴いていると、どこでどう生活しているのかいっさいわからなくても、今という時代をしっかり見つめて歌をつくっていることがわかる。こんなミュージシャンが自分のペースで歌い続けていられることは、現代ではおそらく奇跡に近いのかもしれない。
・RadioHeadのニュー・アルバム"Kid A"は対照的に、これまでとすっかり変わったサウンドだった。変わったというより、どう変わろうとしているのかわからない、混迷さに当惑してしまう感じだった。変わることへの強迫観念。「紙とインク」に目が眩んだのだろうか。少なくともぼくは、全然いいと思わなかった。もっとも、すっかり居直ってしまった感のあるU2よりは、揺れている分だけでもましなのかもしれない。Tracyと聴き比べると、彼女の確かさばかりが目立ってしまう。

2000年12月18日月曜日

井上俊『スポーツと芸術の社会学』( 世界思想社 )

  • 井上俊さんに出会ったのはぼくが大学院生の時だから、もう30年前になる。新進気鋭の社会学者の授業を受けるというので、興味津々で教室で待ち受けていたが、その若くて華奢な姿に驚いてしまった。そんな記憶が今でも鮮明に残っている。権威のかけらもない姿勢につられて、好き勝手な話ばかりした気がするが、一方で英語の文献をしっかり読む習慣もつけてもらった。大学の教師には教員免許が必要ではないし、教育実習もない。しかし、ぼくにとっては井上さんが学生と接する仕方のモデルになったことはまちがいない。
  • 手本にしたのはそれだけではない。ちょうど最初の著作である『死にがいの喪失』(筑摩書房)が出て、その一見平易な文体と緻密な論旨に感心して、それを自分のものにしたいとまねをした。当時は読む価値のある本は難しいものだという常識があって、その難しい中身をどれほど理解しているかが、良くできる学生のバロメーターであるかのような風潮があった。何度読んでもわからない本に自信を失うことも多かったから、井上さんの本には救われた気がした。
  • そんな井上さんが柔道をやっていると聞いたのは、それからしばらくたってのことで、およそかけ離れている気がして、黒帯姿などはとてもイメージできなかった。柔道は体育会系の中でもとびきりの単細胞で右翼チックな連中のやることと思っていたからだが、この本を読んで、高校生の時に有名な三船十段と知り合ったのがきっかけだと知って、何十年ぶりかで疑問が解決した。
  • 柔道について再認識した点をもう一つ。柔道は日本の伝統的なスポーツと考えられているが、実は極めて近代的なものであり、嘉納治五郎がつくった講道館柔道が柔術の近代化を意図してできたものということ。
    柔道は、単に近代にふさわしいマーシャル・アートであるにとどまらず、近代化にともなう社会の変動のなかでなおかつ変わらない日本人の民族的アイデンティティを象徴する身体文化としての性格もあわせもつことになった。その意味で、柔道は「近代の発明」であると同時に、E.ホブスボウムらのいう「伝統の発明」の一形態であったといえよう。(100-101頁)
  • そう、「伝統の発明」。たとえばブルースだって、フォークソングだって、伝統の中に埋もれていた音楽が再発見され、時代に合うよう作り直されたもので、新たな発明という要素がなければ、埋もれたままでしかなかったのである。嘉納治五郎が目指したのは、本書によれば、日本の近代化とその世界への認知。それは彼が日本のオリンピック参加の推進役になったことでも明らかである。近代国家としての日本を欧米に認識されるために重要な役割を果たしたのが柔道だったという指摘は、おもしろいと思う。柔道に日本的な精神主義が付加されたのは軍国主義以降のことだったのである。
  • 本書のテーマにはスポーツの他にもう一つ「芸術」がある。ただしここで問われている芸術は美術や音楽といった狭い範囲のものではなく、文学、あるいはスポーツをも含む広いものとして扱われている。そこでキイワードとなるのは「物語」である。日常の経験と物語は違う。しかし「人間の経験は物語の性質を持つ」。日常生活を意味づけ確かなものに感じさせるのは、古くは神話や伝説であったし、今では小説や映画、あるいはテレビドラマがある。そのようないわば「文化的な要素としての物語」は次に、私たちが自らを認識したり、他者に示して見せたり、また他者を理解したりするために必要な「相互作用としての物語」に影響する。私たちのなかには例外なく、自分をよりよいものとして他人に見せたいという欲求がある。「自己創出的な相互作用儀礼」。実人生のなかでも、人はドラマを演じるものなのである。
    まず人生があって、人生の物語があるのではない。私たちは、自分の人生をも、他人の人生をも、物語として理解し、構成し、意味づけ、自分自身と他者たちとにその物語を語る。あるいは語りながら理解し、構成し、意味づけていく……そのようにして構築され語られる物語こそが私たちの人生にほかならない。この意味で、私たちの人生は一種のディスコースであり、ディスコースとしての内的および社会的なコミュニケーションの過程を往来し、そのなかで確認され、あるいは変容され、あるいは再構成されていくのである。(163頁)
  • 現代はしっかりとした神話や伝説が失われた反面、様々な物語が氾濫する世界。自己を縛る古くさい慣習からは解き放たれたが、それに代わる自分なりのアイデンティティを見つけなければならない社会。生きられる私を意味づける材料には事欠かないが、逆に確かなものは見つけにくい。文学や音楽や映画、そしてスポーツが、魅力的な物語を供給する手段であり、それが私を物語るための材料になることは間違いないが、それで私のすべてが語りつくされるわけではない。だから次々と新しい物語を必要とし、片端から消費して捨てられる。多様な物語に満ちた世界はまた、私の経験そのものをも確かなものにしにくい世界なのかもしれない。
  • 不確かな物語に依拠して示される自己や他者やその関係は、たえず、そのほころびを露呈する危険につきまとわれる。だから私はいつでも自分が嘲笑や不信の原因になることにおそれと不安感をいだく。若い人たちに感じる言葉遣いや相手との距離の取り方には特に、そんな心理を感じることが多い。しっかりしろと言いたくなるがしかし、そこに向けられる井上さんの視線はきわめて優しい。
    物語への感受性はまた、物語の裂け目やほころびへの感受性でもある。どんな巧みな物語も、多様なバージョンも、人とその人生の全体を覆いつくすことはできない。たしかに私たちは、物語によって相互に理解しあい、関係をとり結んでいるが、同時に一方では、物語によってというよりはむしろ、互いに語りあう物語の裂け目やほころびによって、かえって深く結びつくことも少なくないのである。(164頁)
  • 2000年12月11日月曜日

    花はどこへ行った


    ・NHKのBSで「世紀を刻んだ歌・花はどこへ行った」を見た。「花はどこへ行った」はピート・シーガーの代表作だが、番組はこの歌にまつわるさまざまなエピソードと、現在でもなお集会に呼ばれて歌い続けるシーガーを紹介していた。次々とおこるブームや流行とは関係なく、主張を持った音楽に生き続ける老いたミュージシャンの元気な姿に、ぼくは感銘を受けた。
    ・実はこの番組はハイビジョンで数ヶ月前にも見た。で、そこで紹介されていた"Where have all the flowers gone, The songs of Pete Seeger"をAmazon.comに注文した。このアルバムはシーガーの歌40曲をさまざまなミュージシャンが歌っているもので、「花はどこへ行った」を受け持っているのはアイルランドのフォーク・シンガーであるトミー・サンズ。その他、ブルース・スプリングスティーンが"We shall overcome" を歌い、『仕事』や『アメリカの分裂』で有名なジャーナリストのスタッズ・ターケルが朗読もしている。
    ・アルバムを手にしてから何度も聞いていたこともあって、番組もまたくりかえしじっくり見てしまった。『花はどこへ行った』はシーガーがショーロホフの小説『静かなドン』からヒントを受けてつくった。しかし、小説に登場する少女の歌はコザック兵のあいだで歌われていたものらしい。ロシアのフォーク・ソングが小説に取り上げられて、そこからさらに、アメリカのフォーク・ソングに生まれ変わる。その経過に興味をもったが、さらに驚いたのは、シーガーがつくったのは3番目までで、その後はまた別の人がつけくわえたということだった。最初の歌詞は

    花はどこへ行った  少女が摘んだ
    その少女はどこへ行った  若い男と一緒になった
    その若い男はどこに行った  戦場に行って死んだ

    だけだったが、そこに次のようにつけたされた。

    死んだ兵士はどこへ行った  お墓に入った
    その墓はどこへ行った  花で覆われた

    つまり、これで元に戻るような構成になったわけだが、物語としては、このほうがずっと奥行きも広がりもでてくる。で、もちろんピート・シーガーはそれを受け入れて、5番目まで歌うことにした。
    ・この話を聞いて、これこそフォーク・ソングの出来方のモデルだと思った。つまり、一つの曲を互いには無関係な何人もの人が練り上げる。歌い継がれる過程で変容するのがフォーク・ソングの一番の特徴で、そこでは、オリジナリティとか誰が版権を持つといった所有権や利害は問題ではない。「花はどこへ行った」は、シーガーがこのようなスタイルを貫いた最後のフォーク・シンガーだったことを改めて証明した。そのことを一方に置けば、フォーク・ソングを源流の一つにするロックやポップがほんの一時だけ売れる金儲けのための音楽になりすぎていることがいっそうはっきりしてくる。
    ・テレビ番組はその他に、この歌にまつわる人たちの物語を取り上げた。たとえばマリーネ・デートリヒ、あるいはアイススケーターのカタリーナ・ビット。2人ともドイツ人で、デートリヒは第2次大戦、ビットはサラエボという2つの戦争について、その悲惨さを訴えて歌い、あるいは滑った。それはそれで、いい話しとしてつくられていたが、しかし、デートリヒはヒトラー、ビットは旧東ドイツの権力者に寵愛されたスターだった。彼女たちが反戦のメッセージを公言した裏には、そのような批判を払拭するという狙いがあったと言われているが、番組ではなぜか、このことにはふれなかった。だからその分、番組の主張がきれい事になってしまった気がした。
    ・実は「花はどこへ行った」のアルバムの他に、Amazon.comで見つけたものが他にもあって、その一つが60年代にフォーク・ソングの情報を伝える雑誌として有名だった『ブロードサイド』に紹介された歌を集めたアルバム。ぼくはこれが1988年まで出され続けていたことに、また驚いてしまった。アメリカ人は移り気で派手好きだが、しかし同時に地道で根気のいる活動もしている。前記した『花はどこへ行った』も含めて、日本でくりかえし出される『フォーク大全集』といった商品という意味しかないものとの違いを感じざるを得なかった。
    ・BSデジタル放送が始まった。あまり期待しないが、このような番組がつくられ放送されるとしたら、その存在価値は高まるだろうと思った。

    2000年12月4日月曜日

    H.D.ソロー『ウォルデン』その3「孤独」について

     



    ・紅葉の季節が終わったら、あたりは茶色の世界になった。木の幹や枝、落ち葉、それに久しぶりに見せ始めた地肌。季節は色によって変わる。こんな感覚もずいぶん久しぶりに味わう気がする。色と言えば空。寒くなって乾いてきたせいか、本当に真っ青になった。急に気温が下がって、最低は氷点下。だから早朝は必ず河口湖でできた霧が、森にやってくる。ほんの一時期立ちこめて、さっと消えると、抜けるような青空。夏の間は聞かなかった鳥の鳴き声がまたするようになった。シベリアあたりから戻ってきたのだろうか。「久しぶりだね。元気で何よりでした。」と言いたくなってしまった。 森の中の生活は、冬になって訪れる人が少なくなっても退屈することがない。


    ほとんどの時間を一人で過ごすことは健康的だとぼくは思う。たとい相手が選りぬきの人でも、誰かといっしょにいるとすぐに退屈し、疲れてしまう。ぼくはひとりが大好きだ。孤独ぐらいつきあいやすい友にぼくは出会ったためしがない。自分の部屋から出ないときより、どんどん人中に出ていくときのほうが、ふつうはずっと寂しいものだ。考えたり働いたりしていると、人はどこにいようといつも一人だ。(『ウォルデン』206頁)


    ・もちろんぼくはここで一人で暮らしているのではない。しかし、パートナーはできたばかりの工房で、ほとんど一日中、土と戯れている。だから食事のとき以外は顔を合わすこともない。いっしょにすることと言えば、週に一回の町への買い物ぐらいのもので、後はそれぞれ好き勝手なことをやっている。ぼくは部屋でパソコンとにらめっこをしているか、ストーブにあたりながらのテレビか読書。そしてもちろん外に出て薪割り。親しくなったこの地区の管理人さんが近くで伐採した木を運んできてくれる。それを自分で運べる大きさにチェーンソーで切って、庭まで持ってくる。そんなことをしていると、冬の太陽はあっという間に山に隠れて、夕闇がやってきてしまう。本当に一日が短い。

    ・ここに引っ越してからパートナーはほとんど遠出をしていない。東京に仕事に出かけるぼくの車に同乗して、時には東京でショッピングや美術館周り、あるいは映画に食事。そんなことがたまにはあるのだろうと思ったが、全然その気にはならないようだ。実はぼくも、仕事に出かけるのがおっくうで、前日から「行きたくないな」などとつぶやいてしまう。行けば行ったで学生や、同僚とのつきあいはそれなりに楽しいのだが、どうしても行きたい楽しみというものではない。だから、数日間東京に滞在したりしていると、たまらなく森の生活が恋しくなる。


    交際の代価はふつうあまりにも安すぎる。ぼくらは相手のために何か新しい価値をまだ身につける時間もなかったくせに、ほとんどあいだを置かずに顔を合わせる。日に三度食事の時に顔を合わせ、黴くさい古チーズ同然のぼくら自身をまた新しく味わう。これだけ頻繁な出会いをなんとか辛抱できるものにし、たがいに敵同士にならなくてすむように、礼儀作法という名の一連の規則についてぼくらは合意しなければならなかった。(『ウォルデン』207頁)


    ・まったくその通り。特に大学というプライドの高い人の集まりは、角が立たぬようにするための配慮ばかりに気をつかう。もちろん夫婦という関係も、また難しい。一日をまるで違う世界で過ごして、それを共有し会う努力をしなければ、それは本当に形ばかりの関係になっていく。しかし、毎日一緒にいればまた、お互いの存在が鼻について煩わしくなりがちだ。同じ空気、同じ温度、同じ景色を共有しながら、それぞれが別々の世界で生活する。そこにももちろん、礼儀や工夫が必要になる。

    ・「孤独」は一人になれる時間や空間であって、けっして世界から孤立した寂しい状態ではない。それは一人になることで、逆に人とのつながりや他の生き物、あるいは世界との関係を自覚できる瞬間だ。ソローが言うように、森の中ので生活すると、そのことが実感としてわかるようになる。


    ぼくの家には実は仲間がわんさといるのだ。特に訪ねてくる者のいない朝のうちが賑やかだ。(『ウォルデン』208頁)


    ・それはもちろん生き物に限らない。東京にいるあいだに初雪が降った。ぼくのパートナーはそれを喜々として話した。「あー、会えなくて残念」。恋人とのデートに行きそびれたときよりもがっかり。ぼくはそんな気持ちになった。

    2000年11月27日月曜日

    BBはまだ当分だめのようだ

     

  • ヤフーがADSLによるブロードバンド(BB)に乗り出すニュースを聞いてさっそく予約した。大学でのインターネット環境が改善されたら、余計に家での遅さが気になってしまった。BBの普及でかえってひどくなったんじゃないかと思いたくなるほどだ。しかし、ヤフーによれば10月はじめには最寄りのNTT局の工事にとりかかるという。もうすぐ、動画だろうがサウンドだろうが気にせず楽しめる。そう思うとなにやら待ち遠しい気持ちになった。そしてヤフーから工事終了のメールがあった。後は、わが家に連絡がきて接続の手続きが済むのを待つだけ。
  • しかし、その後の連絡がヤフーからちっとも来ない。状況をHPで調べると、相変わらず未接続の地域になっている。おかしいと思っていろいろあたってみると、ADSLが十分な速度で使えるのはNTT局から2kmまでの範囲だという。これではまるでだめだ。何しろぼくの家は、最寄りの富士吉田局とは15km以上も離れている。仮に河口湖に支局ができたって、湖をぐるっと回ってくるから、やっぱり10kmほどもある。これではいくら待ってもADSLはわが家では使えない。嫌いなNTTと直接契約してもだめ。まったくがっかりしてしまった。
  • BBにする手段はほかに、ケーブルテレビの回線と、光ファイバーがある。しかし河口湖にあるケーブルテレビはインターネットのサービスをしていないし、光ファイバーの敷設工事があるというような話はまったく聞かない。これでは、当分は今までのままの超スローな接続で我慢するしかない。本当にいやになってしまう。山間の森のなかまで最新の設備を、というのが無理なのかもしれないが、ほかに無駄な金をずいぶん使っているのだから何とかならないかと行政に苦情を言いたくなってしまった。
  • 今年の夏は、パートナーの工房に陶芸の体験希望者がずいぶんたくさん来た。『ガイドのトラ』の河口湖特集に紹介記事が掲載されたり、『ブリオ』にも、中年夫婦が都心から日帰りでドライブを楽しむモデルコースとして紹介された。トヨタの高級車に乗って、美術館を見て、忍野で有名な蕎麦を食べ、そして工房での器づくり。優雅にすごす二人だけの休日というものだが、実際にそのコースどおりに来た中年夫婦が一組あった。森のなかで、車を運転してこなければ、どうしようもなく不便なところだが、情報さえ提供できれば、それなりの人が関心を持ってやってくる。そんなことを今さらながらに自覚した。
  • けれども、来た人のなかで一番、情報提供として役立ったのは、彼女が出しているホームページだった。河口湖にやってくる多くの人が買い求める観光ガイドや、ナイスミドルをターゲットにした数十万部を発行する雑誌以上に、一日数十人のアクセスがあるホームページの方が力になる。これは本当に改めて、インターネットの可能性を感じさせる出来事だった。
  • それだけにである。BBでの快適な環境が必要なのだ。河口湖に来て一年半になるが、パートナーには陶芸家や画家、あるいは木や石を素材に作品をつくる人など、たくさんの知り合いができている。また、カヌーの「カントリーレーク」やログ・ビルダーのBe・Born」、それに何軒ものペンションの人とも顔見知りになった。強調したいのは、そんな人たちのほとんどがホームページを作っていて、仕事はもちろん、生活や夢について、そこから発信していることである。ホームページは都会ではなく、田舎に住む人たちにこそ、情報の発信や受信に必要なものである。逆に言えば、そんな発想のない人には、たぶん、将来の可能性もないことになる。
  • NTTには、そんな話ははなからする気はないが、赤字が恐くて何もできない「河口湖ケーブル」には、将来のビジョンを描きだせるもっといい人材がいれば何とかなるのではと考えたくなってしまう。あるいは、観光や環境に積極的な河口湖町なら、IT環境にも本腰を入れるよう働きかける価値はあるのかもしれない。とはいえ、今は大学が忙しくて、そんな運動をする時間もエネルギーも全然ない状況だ。
  • 2000年11月20日月曜日

    やれやれ、で秋も終わり

     大学の教師は怠け者でも勤まる。仕事に出るのは1年間に100日足らずで、後は休みなのだから。これは相撲取りとほぼ同じで、プロ野球の選手よりははるかに少ない。もっとも先発ピッチャーならば中4日とか5日の登板で、メジャーでも30試合で200イニング投げれば、一流の証明というからうらやましい気がするが、結果がすぐ出るから、そのしんどさは登板数ではかれるものではない。今年の野茂は、好投しても点がもらえず、かわいそうだった。しかもタイガースは来シーズンの契約をしないという。佐々木に沸き、またイチロー話題が集中して、今は野茂のことなどどこも報じないが、ぼくは今年も一番力を発揮したのは彼だったし、来年もそうなるだろうと思う。なぜ日本人選手がこれほど注目されて、大金が払われるようになったか。もっともっと野茂のすごさに敬意を払うべきだろう。
    横道にそれたが、今回は大学の教師という仕事の話である。大学にはおよそ2カ月間の夏休みと、春休みがあり、その他に今一番待ち遠しい3週間ほどの冬休みがある。それに、授業のある期間といっても出校しなければならないのは原則的には週3日。企業に勤めるサラリーマンにはうらやましい勤務に見えることだろうと思う。人からそう言われることはしょっちゅうあるし、身近にいる学生からもうらやましがられる。正直言って、申し訳ない気がしないでもない。しかし、気持ちとしては忙しい。特に今年の秋はそうだった。
    まず、「日本マス・コミュニケーション学会」の大会の開催校になって、その準備の責任を任されたこと。経験者からは体をこわすとか、神経が参るとか脅されたが、無事に終えることができた。
    次は春からまとめ始めた『アイデンティティの音楽』の校正作業。図版や年表、それに詳しい文献一覧などを入れたから、通常の校正作業とは比べものにならないほど手間暇かかってしまった。編集者にも校正者にも細かな作業で迷惑をかけたが、おかげで、年内の出版ができそうである。学会の開催はもうこれっきりにしてほしいが、本はこれからも作っていきたい。第一、何もなくてやれやれと、仕事が形になってほっとするのでは、満足感が違う。後は、本の売れ行きがいいことを願うばかりである。
    この二つは、いうまでもなく、大学の本業とは関係ない。しかし、大学の教師には、実際こういった仕事が結構あって、それがかなりの手間と暇を必要とする。どちらもやりたくなければやらなくてもいいものだが、なかなかそういうわけにもいかない。
    けれども、これで、暇、というわけではない。師走とはよく言ったもので、これから12月の中頃までは、4年生の卒論作成を助けなければならない。すでに、先週から、何本かの論文を読み始めている。おもしろいもの、つまらないもの、かんばったもの、手抜きのものなどいろいろだ。
    東経大で卒論の指導をするのははじめてだが、ぼくは前にいた追手門学院大学では、ハードルがきつくて学生泣かせの教師だった。理由は卒論集を出していたことと、学生に全力を出させる経験をという親心。その『林檎白書』は編集から印刷、そして製本まで100%手作りのもので、ずいぶん大変だったが、今年の3月で9号まで発行した。
    その卒論集はもうやめと思ったのだが、今年はゼミの活動費として印刷費がもらえることになった。で、生協で作ってもらうことにした。手間はかからないが、やっぱり公になるから、学生にはおもしろいものを書いてほしいと思う。
    そんなわけで、なかなかのんびりできないが、薪割りや、森の散策はもちろん、天気や景色に誘われて、山歩きやドライブには出かけている。ここに載せた画像は上から、落ち葉で埋まった我が家の庭。次の2枚が三つ峠とそこから見た御坂山系。4枚目からは紅葉真っ盛りでパトカーも出動するにぎわいの河口湖と、雪をかぶった富士山。朝の気温も0度になって、ぼちぼち冬いう感じでがしてきた。ストーブの薪の消費量も増えて、山のように積んだ薪が数日でなくなってしまう。庭の木を伐採したおかげで幸いたくさんあるが、早く割って乾かさないと燃やせなくなってしまう。
    なお『アイデンティティの音楽』の表紙を公開しましたので、ぜひご覧下さい。ぼくはもちろん気に入っています。それでは。

    2000年11月13日月曜日

    村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』( 文春新書 )


    ・ぼくはこれまで5冊の翻訳をした。こつこつと根気のいる作業だが、けっして嫌いではない。何より、自分で書く文章と違って、時間を見つけて少しずつやれるのがいい。翻訳はいってみれば夜なべ仕事である。とは言え、その報酬は内職仕事ほどにもならないから、収入のことを考えたらやってられない仕事であることもまちがいない。

    ・それではなぜ、そんな面倒な上に儲からない仕事をやるのか。ことばによって作り上げられた一つの世界を、別のことばで作り直すおもしろさといったらいいだろうか。そこには、推理もあれば、賭もある。創作はできないが、想像力を働かせる場面にも事欠かない。ただ読むよりは数段楽しめる気がする。もっともそう思えるのは、ぼくが翻訳家ではなく、余技としてやっているからなのかもしれない

    ・村上春樹と柴田元幸が出した『翻訳夜話』には、そんな翻訳に対する姿勢や意識に共感できる部分があっておもしろかった。


    ・小説を書くのはもちろん本職であるわけで、これがぼくにとっては生命線なわけです。それだけに「好き」とかそういう言葉では簡単に表現できない部分があるし、またいつでもどこでもすらすら書けるというものでもない。それなりの覚悟を決めて、正しいときを選んで、「さあやらねば」という勢いと集中がないとできません。でも翻訳というのは、違うんです。放っておいても、ちょっとでも暇があったら机に向かって、好きですらすらやっちゃうようなところがあるんです。(村上、p.30)


    ・翻訳はことばを置き換える作業だから、当然、原文に忠実であることが大事だ。けれども、一字一句正直に置き換えていったのでは、日本語にならないし、なっても、とても読みにくいものになってしまう。「忠実に、しかし、スムーズな日本語に」。翻訳の極意は簡単にいえばここにある。しかしまた、それが難しい。難しいからやってみたくなる。

    ・『翻訳夜話』を読んでいて、うらやましいな、と思ったところが一つある。それはふたりが訳しているのが小説だというところだ。ぼくが訳すのはいつも学術書だから、作品の奥にある作家のイメージとか文体の特徴とかを意識することは少ない。注意するのはただ一点、論理的な正しさの追求である。それはそれでおもしろいが、学者ももっと文体に工夫してくれたら、訳しがいがあるのにと文句を言いたくなることが少なくない。

    ・ふたりが披露する翻訳の極意でおもしろいのは「リズム」である。つまり「リズム」のある文章で訳す工夫ということだ。これにもぼくは共感するが、翻訳をしていていつも迷ってしまう点でもある。学術書は正確さを大事にするから、どうしても文章が長くなったり、くりかえしが多くなったりする。だからリズム良く訳そうと思ったら、長い文章はいくつかに分け、くりかえしは省略したり、回りくどい表現は率直に言い換えたりしたくなる。けれども、学術書は読みやすさとか訳者のセンスを発揮させるよりは、正確に訳すことが大事だと言われたりしかねないから、ついつい、リズムに合わせて踊り始めた頭や指先にブレーキをかけることになる。翻訳者のジレンマである。

    ・「正確」であることと「リズム」のある文章であること。翻訳は両方の使命の達成を理想とすべきだが、これははっきり言って不可能である。学術書の翻訳は引用されて、あたかも原文そのままであるかのように扱われる。だから正確にという意見を良く耳にする。もっともらしいが、ぼくは引用するなら原文にあたれと言いたくなってしまう。研究者なら、翻訳をあてにしたり鵜呑みにするような姿勢をもつべきではない。

    ・ぼくは今、6冊目の翻訳を始めている。ポピュラー文化論の入門書で、諸理論の解説が内容だから、当然正確さを期さねばならないが、入門書だから、わかりやすく、読みやすいものにしなければならない。しばらくはまた翻訳者のジレンマに悩まされそうだが、そこがまた、おもしろがれるところでもある。


    2000年11月6日月曜日

    M.Knopfler, The Wall Flowers

     

    ・マーク・ノップラーの新しいアルバムがでた。ぼくは最近、彼の前作やそれ以前の映画のサウンドトラックをしょっちゅう聴いているから、 amazon.comで見つけてすぐに注文した。一緒に購入したのはウォールフラワーズ、ラジオヘッド、トレーシー・チャップマン、それにU2のニュー・アルバム。U2はまだ届いていないが、聴いた中ではノップラーが断然いい。中でもジェームズ・テーラーと一緒に歌っていて、アルバム・タイトルになっている"sailing to philadelphia"、それにヴァン・モリソンとのデュエット"the last laugh"。写真で見るノップラーは太って、しっかり、おじさんしているが、歌やギターは相変わらずのノップラー節だ。ヴァン・モリソンとのデュエットは本当に渋くて、聴くたびにしんみりしてしまう。

    最後の笑い声の音は好きじゃないのか、友人
    泥だらけの老兵と溝に倒れ
    酔っぱらった船乗りとは甲板の排水溝にはまった
    だが、最後の笑いは君のだ。その音が好きじゃないのか?

    奴らが泣かそうとしても、君は笑っていたし、
    這いつくばらせようとしても、飛ぼうとしていた
    だから、最後の笑いは君のなのに、その音が好きじゃないのか?
    "the last laugh" with Van Morrison

    ・ノップラーはダイアーストレイツのリーダーだ。ぼくは彼らのデビュー以来のファンだが、最初に惹きつけられたのは、ノップラーの声がボブ・ディランにそっくりということだった。歌い方も明らかに意識していたから、一歩間違えば、そっくりさんで終わっていたところかもしれないが、ノップラーにはもう一つ、独特の音色のギターがあった。その透明で糸を引くようなサウンドはアイルランドを連想させたが、彼の作るサウンドには、次第にアイリッシュが色濃くでるようになった。聴き始めるとアルバムを次々かけたくなる。で、一日中ノップラー、なんてことが良くある。乾いたしっとり感、あるいは冷たい優しさ。彼のつくる歌にはルー・リードのような都市の風景ではなく、田舎の情景を感じる。


    ・ディランにそっくりといえばもう一つ。ザ・ウォールフラワーズのボーカルはジェイコブ・ディラン。3枚目のアルバムだが、こちらもなかなかいい。もう親の七光りなどと陰口をいわれないだけの力をつけたと思う。ぼくは聴きながら、どうしても若い頃の父親を連想してしまうが、ジェイコブのほうが良くも悪くも屈託がない。

     

    ママ、今月は愛を送ってこないで、心が疲れ果ててるから
    ママ、家に帰りたい、戻りたい
    だから朝の雨に飛び出した、で、悲しみの列車に乗っている
    スーツケースをおろして、靴を茶色に磨いている
    誰もぼくの名前を知らない、今はもう、誰もぼくの名前を知らない
    "Mourning Train"


    ・ママなどということばを聞くと、今度はサラを思い浮かべてしまう。サラは離婚した後ジェイコブと暮らしていたんだ、などと想像力は勝手に歩き始める。そういえば、ぼくの息子は「米、送ってくれ」なんていうメールをよこしていた。「中古の250ccのバイクを20万円で買うからよろしくだって」。それがどうした。そうそう甘い顔ができるものか。などと、連想ゲームは公私混同もはなはだしくなってくる。ジェイコブの詩は"morning rain"と"mourning train"で韻を踏んでいたりして親父の影響が感じられるが、内容はまだまだだ。とは言えぼくの息子よりはずっとましかな………。
    ・ウォールフラワーズを聴いていると、どうしても自分のことに気持ちが移ってしまう。

    2000年10月30日月曜日

    H.D.ソロー『ウォルデン』その2;「生きること」について

     

     


    ・栗の実がなってちょっと楽しい思いをしたら、今度はキノコ。ぼくはキノコに詳しくないから近づかないようにしていたのだが、同居人が隣人に教えてもらったといって数種類を摘んできた。それを野菜炒めやみそ汁の具にしてこわごわ食すと、まあまあいける。何より腹が痛くならなかったのがいい。で、今度はキノコ図鑑での学習。春先の野草やバード・ウォッチングから始まって、森の生活は本当に変化に富んでいる。秋になって、周囲にやってくる人びとの数はめっきり減ったが、寂しい思いをすることがない。

    ・学会の準備でそんな森の生活も上の空だったが、無事に終わって数日間、久しぶりにのんびりする時間をもてた。工房の建築を依頼したログ・ビルダー「Be-Born」の宮下さん宅におじゃましたときに玄関先で見つけた手作りの表札が気に入って、自分でも作ってみたいと思っていたが、ストーブにあたりながら1日半、ナイフと糸鋸と錐を使って作り上げた。材料は白樺で幅は8cm長さは40cmほどある。字と字をどこでどうつなげるか、中はどんなふうにくりぬくか、削っては考えの危なっかしい作業だったが、思った以上のできで、至極満悦!! 充実感いっぱいの一日!!!


    ・ぼくが森に行ったのは、慎重に生きたかったからだ。生活の本質的な事実だけに向きあって、生活が教えてくれることを学びとれないかどうかを突きとめたかったからだ。それにいよいよ死ぬときになって、自分が結局生きてはいなかったなどと思い知らされるのもご免だ。ぼくは生活でないものは生きたくなかった。生きるとはそれほどに貴いことだ。(137ページ)


    ・『ウォルデン』を読みながら毎日の生活を見回すと、現代人の生活の危うさを思い知らされてしまう。生きていることの実感がますます見つけにくい反面で、今ほど自分の存在証明をほしがる時代はない。家の周りの動物や植物は刻一刻と表情を変え、雨粒の感触も風の音も変わっていく。すべてが生きていることを精一杯表現していて、それに反応するだけで、自分も生きていることを確認できる気がする。

    ・どうして僕らはこんなに慌ただしく、こんなにいのちをむだ使いしていきねばならないのか。飢えもせぬうちから餓死すると決めこんでいる。今日の一針は明日の十針などと世間では言うが、その流儀で明日の十針を節約するために今日は千針も縫ってしまう。仕事はと言うと、これと言うものは一つもない。(140ページ)


    ・もちろんぼくは、ソローが体験したような自給自足の暮らしを始めたわけではない。収入を得る場と生活の場を分けただけの話で、ずるいと言われればその通りと答えるしかない。けれども問題は経済的・社会的な立場と言ったものよりは発想の転換なのだとも思う。自分にとって居心地のいい空間と時間を確保することを第一の価値にする。それがはっきりすれば、そのための方策は後から見えてくるはずだ。「静かなところでいい仕事ができますね。」と言われることが多い。そうありたいという気持ちは確かにある。しかし、森の生活で味わう充実感はそれとは違う形でやってくる。


    ・一日はぼくの何かの仕事を先導する明かりのように進んでいった。朝だとばかり思っていたのに、それがもうあっというまに夕暮れだ。しかも記憶に価することは何一つ成し遂げていない。鳥のように囀る代わりに、ぼくは途切れることのないぼくの幸運が嬉しくて、黙ったままで微笑していた。(171ページ)

    ・楽しみを外に求め、社交や芝居見物に余念のない人びとに対して、ぼくの生き方には少なくとも一つ長所があった。ぼくには生きること自体が楽しみとなっていて、ついぞ鮮度の落ちたことがない。ぼくの生活は見せ場がいくつもある終わりのないドラマだった。(172ページ)


    ・薪を割って乾かす。それをストーブで燃やして夜の暖をとる。木のとげは刺さるし、やけどもする。朝にはたまった灰や煤の掃除。ついでに、庭の落ち葉を掃いて、たまにはベッドを日に干したり、部屋の片づけをしたり。そうするうちにまた、薪割り。こんなふうにして過ごす一日は、けっして単調ではないから、飽きてしまうこともない。何も生み出さないのに無意味な感じもしない。そんな感覚を新鮮に思う自分を再発見。

    2000年10月23日月曜日

    釣りとコスモス


  • 秋になると河口湖に来る人の大半は釣り人になる。週末には湖にボートがいくつも浮かんでいる。岸辺も人でいっぱいだが、つり上げたところをあまり見かけない。

  • 河口湖のコスモスは夏前から咲いている。それが夏の間から秋まで咲き続ける。夏になっても咲いている紫陽花など、高原の季節は都会とは違うが、その分、この時期の花の種類は豊富だ。7月のラベンダーが特に有名で町も力を入れているが、ぼくは今の季節のコスモスが一番見事だと思う。湖畔に咲き乱れて壮観だ。ここではコスモス越しに富士を撮ろうとするカメラマンが鈴なりになっている。極めて月並みな絵に描いたような構図だが、ぼくも試しに撮ってみた。






  • 我が家の栗の木に実がなった。イガが8つほどで栗の実は20個足らず。栗ご飯にしたらわずか一回分だったが、おいしかった。摘みたての栗は水分が多くて甘みは今ひとつ。しかし香りは何とも言えずいいものだった。これで付近の赤松林で松茸でも見つかったら言うことはないのだが、なかなかそううまくはいかない。



  • p.s.久しぶりに付近を散策したら、見慣れぬキノコがいっぱい。お隣の人が詳しくて、シメジやなめたけの種類、あるいはその他、食べられるものを教えてもらった。腹痛や笑い出したりしないか心配だったが、大丈夫。あたりまえだがこんな新鮮なキノコは生まれて初めて食べた。


  • 2000年10月16日月曜日

    オリンピック・野球・サッカー


  • もうくりかえしになるから、やめようと思ったが、どうしようもなく腹が立つから書くことにした。スポーツ・メディアのことである。日本はシドニーで金メダルを5個取ったが、その内の4つは柔道で、今更ながらに力のなさを印象づけたオリンピックだった。世界に出れば、否応なしに、その実力がはっきり示される。塚原の失敗や室伏の緊張、サッカー・チームの体力的な弱さ、中途半端なプロ・アマ混成の即席チームだった野球などなど、その自覚や反省が、その後の対応を決めるのだが、日本のメディアはオリンピック期間中は日本選手の数少ない活躍場面ばかりを取り上げ、終わった後も女子マラソンと柔道ばかりを反復させている。これは、現実から目を背けて、いいところばかりを記憶に焼きつけようとする、一種の神経症的な兆候のように思える。10月の番組改編期と相まって、テレビには、しょうもないお座敷芸やのぞき趣味的な番組ばかりが並んでいる。この中から、おもしろいものをいかに探すか、あれこれザッピングしながら、つくづく日本人とは悲しいほどに内向きで現実逃避的で同調的な性格の国民なのだと痛感した。はっきり言うが、ぼくはこのような傾向は大嫌いだ。
  • ダイエーがパ・リーグで二連覇したら、もうメディアはONシリーズと浮かれだす。「20世紀を締めくくる最高の日本シリーズ」。だからいつまでたってもだめなんだと思う。なぜ、いつまでも王と長嶋にしか頼れない状況を危惧しないのだろうか。とにかくややこしい話は抜きにして、盛り上がれる材料を探して陽気にやろう。そのような態度は日本のメディアにおきまりのものだが、日本人なら誰もがそう感じるはずだと信じて疑っていないのだから救いがない。メジャーというもっと強い野球の存在がはっきりしたかぎりは、日本シリーズはしょせん、ローカルなマイナーの選手権試合にすぎない。なぜそう、はっきり言えないのだろうか。
  • そのメジャーでは、1年目の佐々木ががんばった。野茂のケースといい、日本で超一流の選手はメジャーでも一流になれる。そのことがはっきり証明された。フリー・エージェントをこれから取る選手は、巨人になど行かずにアメリカへ行くべきだ。マック鈴木も大家もローテンション・ピッチャーとして定着した。高校生も大学生も、日本のドラフトなどは蹴飛ばしてマイナー・リーグからはい上がることを目指した方がいい。何しろオリンピックで金メダルを取ったアメリカはマイナーの選手で構成されたチームだったのだ。頭のうえにいくつも別の世界が見えているのに、きょろきょろヨコばかり見回している時代ではないだろう。
  • と、書いていたらイチローのメジャー行きが大きなニュースになった。で、やっぱり気になったのは「日本のプロ野球が寂しくなる」とか「マイナー化してしまう」といった心配だった。そんなこと今更言うことではないだろう。マイナーでしかないことは野茂の活躍時にはっきりしたはずだし、策を施すなら、その時点から始める必要があったからである。しかし、この心配は長続きはしないだろう。寂しくなっても何とか話題を探して盛り上げて、といった発想で不安はどこかにしまい込まれるはずだからである。
  • たまたま見かけて読んだ村上龍の『フィジカル・インテンシティ』はおもしろかった。一昨年のワールド・カップ前後にサッカーの話題を中心に書いた週刊誌への連載をまとめたものだが、ぼくが思っていることとあまりによく似ていて、読みながら笑ってしまった。
     仲良しモードというのは危険だ。甘えというのは「ある集団における一体感を楽しむ」ということだ。簡単には勝てない戦いが続く現場では、集団における一体感を楽しむのは罪悪となる。それは客観的な批評を排除し、敵との距離や戦略を曖昧にする。(32p.)

     日本人初の快挙という言い方に代表される閉鎖性を嫌う若いスポーツ選手は増えていくだろうと思う。それは実によいことだ。実はスポーツに限らず、そういう、閉鎖性を実感として嫌う意識を持てなければ、この国に第二の復興の可能性はない。(79p.)

     中田と現地ペルージャの日本マスコミとの対立は象徴的だ。中田は日本の文脈から個人として飛び出してしまった人間であり、現地マスコミは(メディアという言い方よりマスコミのほうが彼らをより表していると思う)日本的な集団の価値観の中にとどまっている。だから必ず衝突する。(218p.)
  • 中田に限ったことではない。野茂も伊良部も伊達もそうだったし、たとえばスキーのオリンピック代表選手もそうだった。日本の閉鎖性はスポーツから崩れるかもしれない。そんな期待を抱かせるヒーローが出始めている。そんな人たちにとって日本の閉鎖性を一番感じさせるのがマスコミの対応であることは、この国のジャーナリズムのしょうもなさを証明する。
  • もうすぐぼくの勤める大学で「日本マス・コミュニケーション学会」が開かれる。開催校の準備で、ぼくは発言どころではないが、メディア批判を本気になってやる人が出ることを願う。
  • 2000年10月9日月曜日

    AOL、NTT、Amazon、そしてMS

     

  • 僕は、家ではAOLをプロバイダーにしている。電話回線ということもあるが、とにかく遅くて、イライラすることが多い。ほかに代えようと何度も思ったが、メール・アドレスの変更をしたくないことが主な理由で、京都に住んでいる頃から、AOL一筋である。すっきりしたアドレスはなかなか捨てがたいのだ。
  • AOLは世界でもっとも巨大なプロバイダーである。しかし、僕が使いはじめた頃は日本に進出したばかりで、アメリカで一番といった程度の認識しかなかった。山梨県に引っ越したときに近くにアクセス・ポイントがなかったから、やめようと思ったが、TCP/IP接続でメールはつづけてきた。僕が公にしているメール・アドレスは大学のものだから、AOLは完全にプライベートなもので、やりとりするメールは少なかったのだが。最近アメリカからジャンク・メールが無数に舞いこんでくるようになった。アダルト・サイト、金儲け、ショッピングなどで、毎回接続するたびに気分が悪い。最近は開けもしないで即、削除。原因は確かめていないが、NTTとの提携以後だから、やっぱりそのせいか、と勝手に決めつけている。前回も書いたが、NTTには本当に腹が立っているのだ。
  • 僕の家の電話は以前から、0088とマイ・ラインの契約をしている。その前は0077だったのだが、電話を買いかえたときに、いちいち押さなくても自動的に安い回線を使う機能が付いていたから0088にした。だからこのサービスは、0077からだともうずいぶん長い期間利用していたことになる。ところが、NTTから先日マイライン契約の確認書類が届けられてきた。こちらでは契約したつもりはないから抗議をしたら、書類上は契約したことになっているという。そんなはずはないと見直したら、非常に紛らわしい、というよりは、NTTに否応なしに契約してしまうような書式になっていることに改めて気がついた。市内通話だけNTTにしたつもりだが、書類は、すべてがNTTになるように巧妙につくられていた。
  • こういった手続きはわが家ではパートナーの役割になっていて、電話でさんざやりとりをして解約をした。そうしたらすぐに新聞に、NTTのマイ・ライン契約の問題が記事になった。そのつもりがないのに契約したことになってしまった人からの苦情が殺到しているという内容だった。サービスが悪いくせに、横柄なやり方を、一方的に押しつけてくる。NTTのお役所体質には、本当に腹が立つ。NTTなんてなくなってしまえ!と声を大にして言いたい。
  • そんなNTTがAOLと提携したから、僕はいやな気がしていた。で、ジャンク・メールの増加である。いったい何が原因なのかわからないが、ぼくはどうしてもNTTのせいにしたい気分である。
  • そうしたら、今度はAOLがAmazon.comと提携というニュースが飛び込んできた。Amazonは最近日本で開店したこともあって、僕はよく本やCDを注文しているのだが、NTTとつながりを持ったと思うと、これもやめたくなってしまった。
  • オンライン・ショッピングの覇権争いは、アメリカではAOLとマイクロソフトの一騎打ちになっているらしい。有力だが経営状態がよくないオンライン・ショップを傘下に入れるための奪い合いが熾烈なのだ。AOLはAmazon.comに1億ドルを出資して、強者連合で業界トップの地位をさらに固める計画なのだという。朝日新聞の記事によれば、AOLの接続会員は全世界で3千万人、アマゾンの昨年の買い物客が2100万人。総計で5千万人を固定客として囲いこもうという狙いなのだそうだ。
    ネットショッピングはAOLとマイクロソフト陣営の主戦場になっており、本人確認の利便性などで客や業者の囲い込みが激化。将来的に利用者の多い方が業者などから有利な条件で手数料を取れると期待されているため、マ社陣営がパソコン基本ソフト「ウィンドウズ」で新規客を獲得し、AOL時婦負はアマゾンのような有力企業と関係を強めて対抗している。(朝日新聞、2001年7月25日)
  • コンピュータやインターネットはベンチャー企業の可能性のある世界だったはずだが、巨大企業が合併してますます強大化する傾向にあるようだ。それによって、簡単に利用できる状況が生まれるのかもしれないが、利用者個々の選択の余地は少なくなってしまう。たとえば、マイクロソフトの「オフィース」は、世界中の誰もがそれを持っていて、使っていることを露骨に前提にしている。ぼくのところにやってくるメールに添付された文書もワードのファイルであることが多いが、そのことを指摘しても、テキスト・ファイルという書式を認識していない人が少なくない。それが必ずしも初心者ではないから、ソフトは「オフィース」しか使わない人が増えたということなのだろう。これでは、日本独特の製品だったワープロ専用機と変わらない。
  • 多様性の衰退はまちがいなく、コンピュータの世界を硬直させる。日本で一人勝ちしているのが、国営企業の体質がぬけないNTTであることを考えると、このような状況はいっそう薄暗く見えてしまう。僕はDSLが使えるようになったら、AOLともNTTともおさらばしようと思っている。もちろん、マイクロソフトとはこれからもできるだけ無縁にと思っている。ついでに、アマゾンもやめようかと考えているのだが、洋書の求めやすさはまだまだ、ほかのネット書店を圧倒しているから、悩んでしまう。
  • 2000年10月2日月曜日

    井上摩耶子『ともにつくる物語』 (ユック舎)

  • 井上摩耶子さんから新しい本を贈られた。『フェミニスト・カウンセリングへの招待』につづく2冊目。なかなか快調のようでうらやましい。今回はフェミニスト・カウンセラーとしてつきあったアルコール依存から回復した人との対話が中心で、やっぱり話し上手、というよりは聞き上手な彼女に感心してしまった。
  • ぼくは胃腸が弱いから、深酒はしたことがない。ある程度のところまで飲んだら身体が受けつけなくなる。無理をしたらすぐに胃がチクチク痛くなって、ひどいときには潰瘍ができてしまう。そのしんどさを何度も経験しているから、どんな精神状態になってもアルコールに依存することはないと思う。とにかく潰瘍は痛いのである。実は後期が始まったとたんの忙しさで、久しぶりに十二指腸にできてしまっているのだが、この忙しさは当分おさまりそうもない。やれやれ………。
  • それはともかく、本題に入ろう。『ともにつくる物語』は題名の通りアルコール依存を克服した松下美江子さんと摩耶子さんの対話が中心だが、話しているのはもっぱら松下さんで、語られる物語は松下さんの半生記である。
  • 松下さんがアルコール依存症になった原因は、専業主婦であること、しかも、結婚前の妊娠で何度も堕胎手術をして子どもができなかったこと、夫の転勤で各地を転々として、友人関係ができにくかったことなどである。銀行に勤めるエリートサラリーマンの妻がアルコール依存症、となれば、周囲の目は当然冷たいし厳しい。「何とだらしがない」「甘ったれな」といったセリフをはきたくなるのは、たぶんぼくも同じだろう。
  • けれども、二人の対話を聞いていると、なぜアルコールに頼るようになったのか、どうしてそこからぬけ出せなかったのかが理解できるようになる。たとえば、すぐに結婚するとはいっても結婚前に妊娠してしまったら、そのことに罪悪感をもつ。だから堕胎手術ということになるが、今度はそれが新たな不安や罪悪感になって妊娠恐怖症になる。で、妊娠をよく確かめずにまた手術。時代は戦後の混乱がまだおさまらない昭和20年代の末。結婚や性に対する考え方は今とはまるで違っていて、医療や身体に対する知識はお粗末なものだった。
  • 結婚するが子どもはできない。高度成長期の銀行マンだった夫は家にはあまりいない。自分の時間をどう使うか。あれこれやってみても、夫の転勤とともに中断。昼間から酒を飲む生活が始まる。そうして30代から40代にかけてアルコールに依存した毎日が続くことになる。だらしがないからではなく、潔癖であるから、怠け者だからでなく、いろいろやりたい、やらねばという気があるからこそ陥る泥沼。この本を読んでいくと、そのあたりのプロセスがよくわかる。
  • 摩耶子さんは前作で「物語を聴くことは、今もうっとりする体験である。子どもの頃は、もっとうっとりする体験だった。私の想像力は、人が話す物語を聴くときに一番遠くまで広がっていく気がする。」と書いていた。今回の話はとてもうっとりするようなものではないが、摩耶子さんの想像力はぴったり松下さんに重なっている。
    テープを聞いてみると、私はただ「ワッハハ」「ガッハハ」と笑ってばかりいる。しかし松下さんには『これは井上さんへの遺言状です』という決意があり、それは私も十分にわかって聴いたつもりである。
  • 大丈夫。摩耶子さんの「ガッハハ」は話を誘発する。おしゃべりや世間話が苦手なぼくがいうのだから間違いはない。カウンセラーにとって大事なのは、理屈先行で相手の話を解釈することではなく、物語として聞き入ることとうまい反応をすること。まじめに、深刻に応対していたら、たぶんこの本の物語はずいぶん違ったものになっていたはずだ。話すことで癒される。カウンセラーという仕事は大したものだと思うが、ぼくにはとてもできそうにない。
  • 2000年9月25日月曜日

    H.D.ソロー『ウォルデン』(ちくま学芸文庫) その1

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     ・夏休みになったらヘンリー・D.ソローの本を読みながら、森の中であれこれ気ままに考えてみたい。そんなふうに思っていたが、できなかった。本を読むよりは動き回っていることが多かったし、客もあった。バルコニーに座って木漏れ日の下での読書、という格好いい空想も、工房の建築工事や雷雨続きで、一度も実現しなかった。

    ・要するに、ソローの世界に入り損ねたのだが、気にはなっていたから、枕元に置いて、寝る前の時間を『ウォルデン』の読書に当てた。しかし数ページと進まないうちにいつでも睡魔におそわれた。だからいまだに、500ページほどの文庫を読み終えられないでいる。

    ・とは言え、この本は一気に読むようなものではない気もする。数ページ読んでは立ち止まり、ソローの発想を心に留めて反芻する。そうしながら夢の中………。そんな読み方がかえって、ゆっくり考える機会を作りだす。何しろこの本は1世紀以上も前に書かれたものであり、その時間の経過を埋めながら読まなければ、とても今の世界にあてはめることはできないからだ。しかし、中にはまさに核心をついた現代批判と言えるようなことばもある。たとえば、次のような文章。


    ぼくらはメインからテキサスまで電信を開通しようとおおわらわだが、しかしメインもテキサスも、おそらくは通信に価するほどの情報を持ち合わせてはいまい。どちらの地域も、たとえば耳の不自由な名流婦人に紹介してほしいと熱望しながら、いざ面会がかない、彼女のらっぱ型補聴器のいっぽうの先端を手渡されると、言うべきことを持ち合わせない人と同様の苦境にある。知恵あることを語るより、口早に語ることのほうが主な目的とでも言わんばかりだ。(74p.)

    ・1世紀前の世界では電信、そして電話が敷設されはじめていた。つまり最初のIT革命である。ソローはそれを使っていったいどんな情報がやりとりされるのかと言う。本当に必要な情報ではなく、また本当に大事なコミュニケーションでもない、ただただ急ぐこと、あるいはつながることだけに対する脅迫観念と、それを実現していることでもつ安心感。それは何よりインターネットと携帯電話に向けられるべき批判でもある。


    望遠鏡や顕微鏡ごしに世界を眺めるが、おのれの肉眼で見ることはない。化学は勉強しても、おのれのパンの作られるすべを知らず、いくら機械学を学んでも、パンを手に入れる手だては分からない。海王星の新しい衛星を発見しても、おのれの目の塵は見えず、おのれ自身がどういう無軌道な無法者の衛星であるかも見破られない。………自分で掘り出し、溶解した鉱石から自分用のジャックナイフを、そのために必要な本を読破して作った青年と、そのひまに大学の冶金学の講義に通い、父親からロジャーズ製の小刀をもらった青年と、いったい一ヶ月たったらどちらが大きく成長しただろう。(73p. )


    ・こんな一文に出会うとまったく耳が痛い気がしてくる。僕らは自分では何一つできなくなってしまっているくせに、ほしいもの、やりたいことに対する欲望ばかりが膨れあがっている。もちろん、問題は複雑で、ソローの指摘を鵜呑みにして社会批判をしたり、自己反省をしても、何かが変わるというものでもない。けれども、時流に乗り遅れまいと流れに身を任せてばかりでは、自分のいる場所を落ち着いて見定めることは難しい。世を捨てるというのではなく、世間から離れて一人になることで生まれるあらゆるものに対する距離感。

    ・ソローはボストンのコンコードに住んでいたが、そこから数マイルほど離れたウォルデン湖のほとりに小さな小屋を建てて数ヶ月暮らした。『ウォルデン』はその時の経験の記録である。この本を読むと、ソローがけっして「孤高の人」とか「文明を拒絶した生き方をした人」でないことがよく分かる。彼は最新の技術に常に注目し、それに翻弄される人びとに警鐘を鳴らした。

    ・ぼくはとてもソローのような高潔な人間にはなれそうにない。けれども、彼のとった姿勢をちょっとだけ引き受けて、自分の経験の中で再現のまねごとぐらいはできるかもしれない。ソローが生きた時代から100年たった世界を、ソローの目と感性と思考を頼りに見つめ直してみたい。このコラムを思い立ったのはそんな意図からだった。どこまで続くか分からないが、しばらくはソローの本につきあってみようと思う。

    2000年9月18日月曜日

    嘉手苅林昌「ジルー」

     

    jiru.jpeg・嘉手苅林昌は沖縄を代表する三絃の弾き語りだった。1920年生まれだが、三絃を手にしたのは7歳だったという。教えてくれたのは歌好きの母親だった。農業の手伝いのために10歳で学校へ行かなくなり、14歳の時に家の金を手に大阪に出た。徴兵、そして招集。クサイ島で負傷し、捕虜となって敗戦。戦後は大阪で闇物資の取引や沖縄一座の地謡をした後沖縄に帰る。1950年に初レコーディング。その後は主に、村の行事や祝いの座で歌い、沖縄中を回る。最初のLPを出したのは1965年。琉球放送のレギュラーや民謡クラブで歌い続ける。1999年、逝去。
    ・ジルーは嘉手苅林昌の童名で、本土で言えばジロー。年表によれば、死の直前まで歌い続けている。その童名をタイトルにした「ジルー」にはその足跡をたどるように1950年の初レコードから1975年までに録音された歌が20曲収められている。もちろん最初のものはSP盤で後はLP、すべて廃盤になっていたものをCDとして復刻している。
    ・聴きながらまず思ったのは、これが沖縄の民謡を集めたアルバムであるのに、喜納昌吉や林賢バンドとほとんど同じ感じで聴けたことだ。もちろん、ロックではないから8ビートはないし、英語も混じったりはしない。しかし、この二つの音楽には、確かに切れ目なく歌い継がれてきたものがある。そんな印象を持った。
    ・理由の一つは、沖縄の歌が歴史や時事的な物語の語り部として生き続けていること。それは、沖縄の自然や神話、あるいは昔話に触れ、戦争について歌う。古い言い伝えが生き生きとよみがえり、悲しい歴史が反芻される。あるいは何より多い恋歌は、どれもが春歌のようで開放的だ。沖縄の若いミュージシャンは、新しいリズムや楽器を取り入れ、時代に合わせたメッセージや物語を歌にするが、歌う姿勢に何ら違いはない。そんな印象が強い。


    九年母木ぬ下をて 布巻きちゅる女(ミカンの木の下で布巻きしている女)
    あっちぇーひゃー あんし美らさぬひゃー(あっぱれ、あんな美しい人ははじめてじゃ)
    ………
    ちゃーならわん でぃ先じしかきてんだ(どうなろうとまずは行動あるのみ)
    一番始みは我んから しかきら(はじめはおいらがナンパしてやる)
    初みてどやしがよ 年幾ちなゆが(はじめてだけど彼女年幾つ)
    十七、八やらや 我んね三十(十七八頃かな俺は三十)

    やれー何やが やなうふじゃー小よ(だったら何なのさ いやなおっさん)
    其処うてぃーふぇー じゃーふぇーしいね(此処でなんやかやしてたら)
    仕事んならん(仕事できないじゃない)  「九年母木節」


    ・岡林信康がずいぶん前から、日本の歌は「エンヤトット」でなければだめといった発言をして、新しい歌を作りつづけている。彼なりにがんばっているとは思うが、ぼくは、そこにどうしても不自然さや違和感を持ってしまう。それは、僕らの生活感や日本の歴史や自然に対する意識が「エンヤトット」からはすでにとっくに切り離されてしまっていると思うからだ。その断絶が、日本の民謡を古くさい骨董品のように感じさせている。
    ・けれども、同時に思うのは、だからこそ、次々にとっかえひっかえ出てくる新しい音楽は、どれもこれもがアイデンティティ不明だということだ。そんなもの必要ないと心底感じているのなら、それはそれでいいが、今の日本人の多くは「アイデンティティ不確か症候群」を心の奥底に抱えてもいる。誰もが感じているのに、それを模索する道は容易には見つからないし、そんな気持ちを表に出す出口もない。
    ・「ジルー」の歌に感じる現在性は沖縄では当たり前のものだが、本土ではもちえないもの。そんなことをいっそう強く感じさせるアルバムである。

    2000年9月11日月曜日

    "Buffalo66'" "Little Voice"


    ・Wowowでは毎月二日、第一土、日曜日に、その月に放映する新しい映画をまとめて放送している。「最強宣言2days」。ずっと見逃してきたのだが、たまたまつけておもしろそうだったので何本も続けてみてしまった。今回紹介するのはそのうちの2本である。
    ・「バッファロー66'」は奇妙な映画だ。無精ひげのいかにもさえない感じの男が、ゴムまりのような女の子を誘拐する。彼は刑務所を出たばかりで、両親の元に行くのだが、結婚したと嘘の手紙を書いてしまっていた。で、それらしい女の子が必要だった。一見ストーカーふうに見える男は、実は異常にシャイで、途中立ち小便をするシーンでも、彼女に何度も、「絶対に見るな!!」と繰り返す。
    ・ 家に着くと両親が暖かく迎えてくれるが、会話の端々に、男が育った親子関係のありさまが垣間見えてくる。母親はチョコレート・ケーキを出すが男は食べない。「好きだったでしょ!」というが男は否定する。「チョコ・アレルギーだった」。母親はそれを知ってか知らずか、男に食べさせ続け、彼はそのたびに顔を腫らしたらしい。回想シーンになると突然スクリーンの中心から別のウィンドウが現れ、そこに少年時代のシーンが映し出される。すぐに激昂する父親。フットボール観戦になると我を忘れる母親。誘拐された娘はしだいに男に好意を寄せるようになり、両親に妊娠しているなどと適当なことを言い始める。父親は理由を付けては娘を抱き寄せる。4人が囲むテーブルを、カメラはいつでも、誰かの視線で3人を映し出す。これもおもしろいカメラ・ワークだと思った。
    ・男は刑務所に入る原因になった奴を殺しに行く。娘が同行するが、モーテルではもちろん一緒に寝ようとしない。風呂に入っているのを覗かれるのさえ嫌うが娘は一緒に入りたいという。そんなおどおどした男だが、ボーリングをするときだけはさまになっている。で、殺しの実行、というところなのだが、空想だけでやめて、モーテルに帰る。彼女の大きな胸に顔を埋めたところでおしまい。
    ・リトル・ヴォイスは自閉症気味の女の子の話。好きだった父親が死んでから、彼女は部屋に閉じこもって、父親が集めたレコードを聞いているばかり。外にも出ないし、母親の呼びかけにも応えない。ところが、父親の幻影が現れると、レコードそっくりに歌い出して、周囲を驚かせる。ジュディ・ガーランド、マリリン・モンロー、シャーリー・バッシーと誰の物まねでもやってしまう。場末のナイトクラブのオーナーと落ちぶれたプロモーターが売り出しにかかる。少女はたった一回だけの約束で歌うことにする。客席に父の幻影を見つけた彼女は、とりつかれたように次々と歌って客席を魅了する。
    ・味を占めた大人たちは、彼女をスターにすることを空想する。しかし、どう説得されても、脅されても彼女はその気にならない。予定したショーが台無しになり、漏電で家が焼けた後、母親は彼女をののしるが、逆に少女は父親の死の原因が母にあること、それが原因で自分が小さな世界に閉じこもってしまったことを母親に吐き捨てるようにいう。彼女が心を開いたのは、鳩が好きで無口な青年だけ。
    ・前者はアメリカ、後者はイギリスだが、共通点の多い映画だと思った。マザコンの男とファザコンの女。どちらもきわめて感受性の高いナイーブな若者が主人公で、それゆえに屈折した育ち方をしている。そしてその原因の多くはもちろん、親にある。夫婦、親子の関係の難しさと、それを正直に反映する形で成長する子どもたち。どちらも地味な映画だが、問いかける問題は日本にも共通する、今日的で普遍的なものだと思った。
    ・「バッファロー66'」は題名の通り60年代だろうが、「リトル・ボイス」の設定はたぶん現在である。しかし、少女の家にはやっと電話が取り付けられたところだ。田舎町で労働者階級の住む地域のせいかもしれない。歌われる歌とあわせて昔懐かしい感じのする世界。そこでそれぞれの主人公がそれぞれの仕方で救われる。映画にありがちなエンディングといってしまえばそれまでだが、殺伐とした少年犯罪が頻発する現在の日本では、そんな懐かしさや救いは求めようがない。求められないとわかっていても、それでも求めてみたい救いの手。見終わって浮かんだのはそんな感想だった。

    2000年9月4日月曜日

    夏の終わりに

     大学の夏休みはもう少しあるが、河口湖は9月に入って急に静かになった。8月は確かに東京に比べれば涼しいが、富士山はほとんど見えないし、道路はいつも渋滞している。どうせ土日に来るなら、9月にしたらいいと思うのだが、人びとは行列が好きらしい。去年の経験からいえば、富士山周辺はこれからが美しい。秋の高気圧が張り出せば、空は真っ青になるし、富士山はくっきり見えてくる。湖の色も深い青がきれいだ。10月になれば、山も色づき始める。 それはともかく、今年の夏はペンションのオーナーをやったような毎日だった。我が家に泊まった人は7、8月の2ヶ月間で30人弱、日帰りの人をあわせると50人ほどのお客さんがあった。一緒にする食事や焚き火を囲んでの談笑などでいままでとは違ったつきあいを経験したから、楽しかったが、8月中旬は毎日夕立があって、シーツの洗濯や布団干しもままならなかったから、本当に大変だった。最後が4年生のゼミ合宿。

    19人のうち15人出席という参加率だったし、にぎやかに楽しいひとときを過ごしたから、みんなにもいい思い出になったことだろうと思う。卒論のすすみ具合を報告した3人も、きちんと勉強してきた。けがも病気もなくやれやれといったところだが、一つだけ不満が残った。森の中に来ているのに家の中にじっとしている人が多いことだ。「散歩にでも行っておいでよ」といわれてはじめて外に出る。しかし、植物や昆虫、鳥等に興味を示すわけではない。家のなかには同居人がつくった陶器がずらっと並んでいるし、ぼくがつくった木工品もあったのだが、つくってみたいという者もいなかった。
    ただ一人だけ、今年小学校の教員免許を取るために他の大学に編入した阿部君だけは、授業でやっているせいか、関心の示し方が違った。ぼくのつくったフォークを使ってピラフとマカロニサラダを食べながら、「先生これ食べにくい。もっと形を考えなければ。まだまだ改善の余地がありますね」と生意気なことをいった。小学校の先生は何でもできなければならないし、何にでも関心をもたなければならない。そして何より子供好きであることが必要だが、彼にはすべてが備わっている。あとはもうちょっと学力をといったところだろうか。
    と、いびるのはともかく、自然に対する関心や道具についての興味などが、最近の学生たちにはほとんど動機づけられていないと思った。夕食のバーベキューでも、にんじんはどう切ったらいいのかと迷ってしまう人がいる。家でも食事作りの手伝いなどはほとんどがしていないようだ。家庭や学校がそんなふうにして子どもたちをスポイルしてしまっている。やっぱり今年の夏に一晩泊まった友人の息子のユウジ君はアメリカのオレゴンで生まれ育った中学生だが、ナイフの使い方も焚き火の仕方も上手だった。アメリカでは親は当然のこととして子供に家の仕事を手伝わせる。学校でも体験的な学習が重視されているようだ。過保護や事なかれ主義の風潮を何とかしないと、何もできない、何にも興味を示さない人間ばかりになってしまう。そんなことを改めて感じた。

    隣町の富士吉田はぼくの生まれ故郷だが、夏の終わりに日本三大奇祭のひとつ「火祭り」がある。ぼくはその日東京で用事があって夕方に帰って、急いで祭りに出かけた。「火祭り」はその名の通り町中に火が焚かれる。浅間神社から町のメインストリートを数キロ、道の真ん中に20メートルおきに5メートルほどの大松明。それに各家には井桁に組んだ薪。その間に縁日の屋台がずらり。子どもの頃を思い出して懐かしかった。 途中、富士講の宿坊(御師)がいくつか開放されていて、そのうちの一つにはいると、ユニークな富士の絵がずらり。86歳になるこの宿のマキタ栄さんの作だそうだ。無造作に並べられているところがとてもよかった。今では、白装束で浅間神社から頂上まで登る人はほとんどいないらしく、宿もやってはいないという。夏の富士登山はバスで上がった5合目からで、後は行列して山頂を目指す。富士山は秋でも登れるのに、9月になればやっぱりひっそりする。

    こんな具合で、じっくり勉強、というわけにはいかなかったが、本のゲラも届いて、仕事モードになりはじめている。このHPに開いた二つのBBSにもお客さんが訪ねてくれている。出版に向けて、もっともっとにぎやかになるといいな、と思っている。 最後に工房について。7月からはじまった工事は外側がほとんどできあがった。窯も入って後は細かな内装と外側の塗装。もうすぐ火入れを試して、同居人の陶芸づくりがはじまる。そのうちぼくもろくろを回してみたくなるかもしれない。コンクリートの床には暖房が埋め込まれているから、冬はここが一番暖かいかもしれない。床にマットを敷いて読書と昼寝などというのも気持ちがいいだろう。楽しみがまた一つ増えた。

    2000年8月28日月曜日

    鈴木慎一郎『レゲエ・トレイン』青土社 R.ウォリス、C.マルム『小さな人々の大きな音楽』現代企画室

     

  • 音楽を素材や解き口にして、一つの社会や文化を知る。そんな試みが少しずつ形になってきている。以前にこの欄で取り上げた鈴木裕之の『ストリートの歌』(世界思想社 )はその一つだが、それに続くようにして新しい本が出た。鈴木慎一郎著『レゲエ・トレイン』(青土社 )である。タイトルの通り、この本がテーマにしているのはカリブ海の小国、ジャマイカである。
  • ジャマイカといえば、まず思いつくのはレゲエ。おそらくこのようにいう人は多いはずだ。レゲエはボブ・マーリーが世界的に有名にし、確立させたロック音楽の1ジャンルで、たとえば国を代表するサッカー・チームが「レゲエ・ボーイズ」と呼ばれたりする。 陽気なリズムがダンスには欠かせないものになっているから、おそらく若い世代でレゲエを知らない人はいないに違いない。けれども、ジャマイカがどんな国かということについては、レゲエとは裏腹にほとんど誰も知らない。『レゲエ・トレイン』はその落差を埋めてくれる好著である。
  • 著者が問いかけているのは、一つはレゲエという音楽の根にある「ラスタファ」という思想。つまりアフリカ回帰の願望である。そこにはジャマイカ人の大半が奴隷としてアフリカから連れてこられた人びとの子孫だという背景がある。このような考え方はもちろん、レゲエとともに生まれたものではなく、1930年代に一つの社会宗教運動として興っている。
  • レゲエはだから一方では、イギリスから独立した後も少数の白人に支配される不当な国、貧しい社会であって、こんなところではなく、本来の地アフリカに帰って生きるべきだと歌う。しかし、レゲエの歌には、他方で、ジャマイカのあらゆるものに対する想い、愛を表明したものも多い。こんな指摘をする著者はその意識の二重性を次のように解釈している。
    ジャマイカの黒人系は、近代市民社会の普遍的な人間としてどこかの国民になりたい、そしてその国民主体になりたい、という欲望と、それから黒人にかんする否定的なイメージ。つまり「ジャマイカでは黒人は国民の完全主体にはなり得ないのだ」というエリート社会からのイメージとの、二重性において自己意識をもったのです。
  • この本の中でおもしろかったのはレゲエの歌に古くからのことわざが多く使われているとする指摘である。レゲエはジャマイカ固有の音楽ではなく、伝統的なものに、アメリカやイギリス、それにもちろんカリブ海の近隣の影響が混じり合って生まれた。しかも、ボブ・マーリーによってイギリス経由で世界に広まったこの音楽は、それぞれの国で多様な変容の仕方をしている。しかし、そういう状況になってもレゲエの歌詞には、ジャマイカに言い伝えられ、人びとの口に今も上ることわざが多い。著者はそれをレゲエが今も共同性に根ざしたものであることの証拠だという。レゲエはジャマイカ人にとっても「集合的な経験」としての濃さを失っていないというわけだ。
  • もう一冊『小さな人々の大きな音楽』。これを書いたR.ウォリスとC.マルムはスェーデン人で、このタイトルの小さな人々とは、アメリカやイギリス、それに日本などの音楽大国とは違う、経済力も技術力も小さな国に住む人々のことを指している。そのような国力の差にかかわりなく、どんな社会のどんな文化にも音楽はあって、20世紀の時代には、それが大国で生まれた音楽産業や新しいメディアの影響を受けた。台風のように押し寄せる大国の新しい音楽によって吹き飛ばされる伝統的な音楽。あるいは、したたかに取り込み変容しながらも、独自な展開を見せる音楽。そのような多様な状況を、国ごとに追いかけた内容になっている。
  • 本国での出版は1984年で翻訳されたのは1996年だが、つい最近見つけた。当然、ここでふれられている音楽状況は80年代のはじめまでだが、90年代になって大きな問題となる著作権などにも多くのページが割かれていて、興味深い。音楽小国はどこも90%以上が海賊版といった状態だが、それでも、乏しい外貨が著作権という名目で流出してしまう。そのかき集められたお金がは、いうまでもなく、ほんの一握りのミュージシャンとメジャーの音楽企業に流れ込む。資本主義の鉄則といってしまえばそれまでだが、事細かな事例の紹介はとても興味深い。もちろん、このような状況はインターネットの時代である現在では、もっともっと複雑なものになっているだろう。知りたいが、ぼくにはとても調べる気力もエネルギーも時間もない。
  • 2000年8月21日月曜日

    ジャンク・メールにつられて


  • 最近特にというわけではないが、ジャンク・メールがよくやってくる。大半はお金儲けかアダルト・サイト。新ビジネスの誘いとか、投資の勧め、あるいは掘り出し物の宣伝などといったメールにはまったく関心がないから、即削除することにしている。本当はメールを開く気もしないのだが、最近はなかなか凝っていて、題名に「渡辺と申します」などとついていて、一見しただけではどんな内容なのかわからない場合が少なくない。たとえば………
    同姓のよしみで、突然のメールの送信お許しください。□ ■ クラブと申します。当クラブは、今の日本の預金金利の低さに、ガマンできない人達が集まってつくられた自主運営の情報交換会です。『目的を持ってお金を貯めている』 方、『将来お金が絶対に必要』な方に、ごく一部の資産家の持つ『貯蓄術』を、ただ一心にお伝えしたく、失礼を覚悟で ご連絡申し上げました。
  • インチキくささ丸出しだが、詐欺まがいの商法に引っかかったというニュースは後を絶たないから、こんな誘いでも、ついついその気になる人がいるのかもしれない。そういえば、勧誘はメールだけでなく、研究室の電話にもよくかかってくる。こちらはもう本当にむかっとしてしまうから、「あんたどこにかけてるのかわかってるの?今授業中だよ!」と言うことにしている。
  • けれども、アダルト・サイトにはちょっと興味をそそられる。だから時には、サイトを訪ねることもある。そうするとたいがい、それなりの写真が数枚あって、「これ以上ご覧になりたい方は。ぜひ会員に」といったメッセージが書いてある。会費は電話料に加算かカードによる払込。実は危ないことが一度あった。
  • 専用ソフトのダウンロードボタンがあって、何の気なしに押したら、ダウンロードをはじめて、即解凍、終わったら、自動で接続を始めた。慌てて、接続中止にしようとしても、何度も同じ動作を繰り返す。仕方がないから、パソコンを強制終了して、立ち上げなおし、TCP/IPをチェックする。すると、今まで使っていたプロバイダーの設定はすべて消されてしまっていて、怪しい接続先は消去ができない。で、システム・フォルダを開いて、それらしいファイルをすべてゴミ箱に捨てて、もう一回再起動。やっと元に戻ってほっとしたが、そのあくどさにあきれた。
  • 身に覚えのない多額の電話料金を請求された話もよく耳にする。上に紹介したケースなら、そんなことにもなりかねないだろうと思った。インターネットは手軽だが、落とし穴もあちこちに巧妙に仕掛けられている。そしてパソコンに詳しくない人なら、自分が穴に落ちたことすら気づかない。
  • もっとも、アダルト・サイトが全部、このような怖いところだとは限らない。最近では週刊誌にも「ヘア」は珍しくないが、日本のサイトではハードコアはもちろん、性器の露出も禁止されている。しかし、外国のサイトのものなら、そんな日本の法律は関係ない。しかもインターネットには国境がないから、何でも自由に簡単に見ることができる。大学でも、これはなんとかしなければ、という意見も出るが、僕は英語の勉強にもなるのだから、多少の冒険はいいのではないかと思っている。
  • これはジャンクではないが、もうひとつ意外なメールを紹介しよう。「コーパスご提供のお願い」というもので、何のことかわからなかったので開けてみた。依頼主は「マイクロソフト社」。
    現在マイクロソフト社では自然言語の解析を行い、今後の製品開発に役立てるためのデータ (コーパス)を集積すべく、あらゆる分野(固い言葉から日常の言葉まで)で使用される日本語文章のサンプルをご提供いただける協力者の方を探しております。
  • コーパスとは「言語情報のかたまりで、通常はセンテンスごとに切り離したデータ」のことのようだ。つまり、僕がHPに載せた文章を日本語の材料として使いたいということのようである。依頼書を読むと謝礼も出るという。僕はマック派だからビル・ゲイツは好きではないが、日本語の解析に役立つなら協力しようかと思って、承諾の返信を出した。
  • 言うまでもないが、HPのデータは、誰でも見ることができる。見るということは、受信したパソコンにデータが全部ダウンロードされるということだ。いったんダウンロードされたデータは盗作や無断借用ならいざしらず、解析材料にするぐらいならいちいち使用許可を取る必要もないだろうに、と僕は思った。しかし、インターネットの時代を先導するマイクロソフト社だから、逐一契約をするというのは当たり前かなとも感じた。何しろソフト会社にとって最大の敵は製品を無断コピーさる人たちなのだから………。
  • そんなわけで、僕の文章がやがてマイクロソフトの製品に生かされることになるのかもしれない。そう考えると、自信を持って「正しい」とはとても言えない僕の書く日本語が材料になっていいのだろうか、と心配になってきた。と書いているこの文章も、マイクロソフトにコーパスとして利用されることになるのである。
  • 2000年8月14日月曜日

    オリンピックのテレビはどうしようかな?

     

  • 千葉すず選手は結局オリンピック代表になれなかった。スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定は、選考過程は公正だが基準が不明確というもので、いかにも「仲裁」と名のついた機関の決定内容だと思った。オリンピックで彼女の笑顔や突っ張ったときの口をとがらした顔が見られないのは残念で、ぼくは水泳を見る気がしなくなった。フジヤマのトビウオも権力者として居座る姿は醜い。選手は黙って従えばいい。そんな古い考えが通用しないことを肝に銘じるべきである。
  • どうもここ数年、スポーツ界を中心に同じパターンがくりかえされている。サッカーの釜本とトルシエ、あるいはプロ選手のオリンピック派遣を巡る巨人オーナーの発言と古田選手の不出場。スポーツがどんどん国際的になって、選手が視野を世界に広げれば、当然、意識や考え方も変わってくる。それを自覚せずに日本式の古い慣習や考え方を当たり前のことと続けている。組織のトップにいる人たちは、もう全然世の流れについていけてないのに、そのことに気づいてすらいない。情けない状況だが、若い人たちが次々と反旗を翻して自覚させる他はない。千葉すずの行動はそんな意味ではきわめて重要なものだと思った。
  • マスコミはおしなべて千葉選手に好意的である。そこから、スポーツ組織の体質の古さを批判する。オリンピックの選考基準が曖昧であることは陸上の女子マラソンでも話題になったが、それをアメリカのたった一回の予選会と比較して対照させる。しかし、体質的にはマスコミも同じであることを自己反省することなどはしない。野茂や中田や伊良部がマスコミとどれほどのけんかをして、今どんな認識を持っているかということに、自覚的なジャーナリストなどほとんどいないのが現状なのだ。
  • ぼくは野茂や伊良部のメジャー・リーグ進出以来、日本のプロ野球には関心がなくなって、今ではほとんどテレビ観戦もしないし、新聞の記事も読まなくなったが、トルシエ騒ぎでJリーグに対する興味もかなり薄れてしまった。こういう話をすると「だけど選手には罪はないし、がんばっているから見てやらなきゃ」といった応えが返ってくる。どうもそれもまた、きわめて日本人的な発想のように思えて、説得力を感じない。何より、こういった発想がマスコミ、とりわけテレビのスポーツ・ニュースのコメントには溢れていて、それにもまたうんざりしてしまうのだ。
  • 巨人が独走をはじめて、ペナントの興味は薄れかけている。あれだけの補強をすればそうなるのは当たり前で、今年はおもしろくならないことは最初からわかりきっていたはずだが、ニュースは巨人の話題探しに終始してきた。それはこれまでの視聴率に依存する保守的な体質以外の何ものでもない。
  • ぼくは今年もメジャー・リーグを追いかけているが、残念ながら佐々木をのぞいてはいいニュースを聞かないし、中継を見ていても悔しい気分になることが多い。野茂や吉井も調子は悪くなかったのに見方の援護が少なくて勝てないでいる。鈴木がずいぶん成長したが、彼も同様に勝ち星に恵まれない。伊良部は早々故障してしまった。おまけに、あの頑丈な野茂まで故障者リスト入りである。だから、新聞もテレビもメジャー・リーグのことをあまり話題にしない。
  • 野茂と言えば、今年はずいぶん苦労している。先日見た試合ではフォームが変わっているのにびっくりした。球種も増やそうとしているようだ。手を痛めたのは、そんなことが原因かもしれない。彼はいまだにインタビューを通訳を介してやっている。アメリカになじめていないようにも思えるが、メジャーで生き抜くために孤軍奮闘していることはひしひしと伝わってくる。中田だってローマに移籍したあとは思うように試合にでられない。しかし、どっちにしたって、頼りになるのは自分一人で、評価されるのは今現在の実力でしかない。
  • というわけで、何人かのスポーツ選手の動向は気になって、インターネットで追いかけているが、テレビでのスポーツ観戦はまったく楽しくない。甲子園はもう何年も前から嘘っぱちの青春物語にうんざりしている。オリンピックも陸上、サッカー、水泳、野球と興味を半減させるニュースばかり続いていて、開始が待ちどうしいなどということは全くない。せめて、野茂の故障が治って、またマウンドでの雄志を見ることができたらいいのだが………。
  • 2000年8月8日火曜日

    HANABI! はなび!! 花火!!!

    8月5日の夜に河口湖で湖上祭があった。戦後すぐにはじまった花火大会で、五つの湖がそれぞれ1日ずつ花火大会をして、最終日が河口湖。子供の頃に何度か見に来た覚えがある。夏の一大イベントで、湖畔道路は昼間から大渋滞した。

    ここのところ日中はさすがに暑く、30度を超えることもある。しかし、午後になると必ず夕立があって、後はめっきり涼しくなる。納涼というにはちょっと肌寒い感じの花火だ。しかし、湖畔に行くと、車も人も一杯で、花火が打ち上がるたびに、にぎやかにかけ声をあげている。

    間近で花火大会を見たのは久しぶりだ。去年までは京都の山崎にある我が家から、宇治川の花火を見ていたが、それは小さくて、音も聞こえてこないほど遠かった。京都の大文字の日には城陽でも花火大会があって両方楽しめたが、これもやっぱり小さくてかわいいものだった。

    河口湖の花火は南岸のホテルや旅館が隣接する場所から打ち上げられる。それをぼくは対岸から見た。近すぎると首がくたびれたり、火薬の臭いに気分が悪くなったり、音に負けてしまったりするから、ちょうど良い距離だったようだ。


    見せ場は湖に向かって飛んだ花火。これは半円上に光って、失敗したのかと心配してしまった。それからナイアガラ。見ているところからはちょうど河口湖大橋がシルエットで映った。橋の上は車の行列だった。あまり暑い思いをしていないが、やっぱり夏だな、と思う瞬間。しかし、終わった頃には足が冷えてしまった。