・久しぶりに映画館で映画を見た。河口湖町には1軒だけ映画館がある。実はそこに入ったのも初めてだった。大きなスーパーの中にある小さな映画館に入ると、客はまばらで、同世代の人たちばかり。『たそがれ清兵衛』を見るにはぴったりの雰囲気だと思った。山田洋次がはじめて撮った時代劇であることや、中年の悲哀をテーマにしていることで話題になっていた。BSでやった撮影過程のドキュメントもおもしろかった。で、見に行こうということになった。テレビで映画を見ることが当たり前になって、わざわざ映画館に行くことをすっかり忘れてしまっている。そんな自分を今さらながらに自覚した。
・映画はおもしろかった。精兵衛は妻を労咳で喪い、痴呆の母と幼い娘をかかえた下級武士である。病気の治療のためにかさんだ借金もあって暮らしは楽ではない。同僚の誘いも断って仕事が終われば、さっと帰宅する。5時からではなく、5時まで男。だから「たそがれ」というあだ名がついた。身なりも構わないから着物はぼろぼろでよれよれ、風呂にも入らず髭もそらず、ちょんまげも整えないから、本当に貧相でむさ苦しい。あたりにも臭いが漂う。家に帰れば、さっそく虫かご作りの内職をはじめる毎日だ。
・しかし、精兵衛はそんな日常生活にも、それほど苦しさや不満を感じていない。出世にも興味はなく、親戚がもってくる後妻の話も断る。ストイックだが、二人の娘との暮らしのなかに、それなりの充実感を見つけている。余計な欲をだせば、かえって今の生活を維持することが難しくなる。それをしっかりわきまえた上での生活観や人生観。そのことを映像としていかに忠実に描きだすか。山田洋二の狙いがそこにあったことは、映画を見ていてよくわかった。
・もちろん、映画は一方でエンターテインメントだから、盛り上がりや華やかさも必要になる。一つは幼なじみで暴力夫から逃げ帰ってきた朋江(宮沢りえ)の存在。彼女は精兵衛を慕っていて、時折やってきては精兵衛の家の片づけをしたり、娘と遊んだりする。精兵衛も、連れ戻しにやってきた暴力夫の申し出た果たし合いを受けて、木片で叩きのめしたりする。精兵衛もまた彼女を慕っていることは痛いほどわかる。けれども、彼女との再婚という話は、やっぱり断ってしまう。借金を抱えた貧しい暮らしの中では、うまくいくはずのないことは目に見えていたからだ。
・精兵衛は剣の達人である。そのことが果たし合いの一件で衆知のことになる。で家老の命令で刺客を引きうけさせられるはめに陥る。使命を果たせば禄高は増える。しかし、失敗すれば母と娘が路頭に迷う。精兵衛は迷った末に決心して、彼女に帰ってきたら結婚をと申し出る。ところが彼女はすでに別の縁談を受け入れていた………。
・薄暗い室内での壮絶な立ちまわり。血みどろになっての使命の達成と帰宅。出迎える朋江。うだつの上がらない貧乏侍と剣の使い手、所帯やつれした男と、そんな彼を一途に慕う女。この二面性の強調は「スーパーマン」にも通じる物語の常套手段だ。また、たそがれ時はけっして停止してはいない。真っ暗闇もあれば、夜明けもあり、明るい昼もある。山田洋次の作る世界は一面ではシリアス・ドラマを特徴とするが、他方では寅さんに代表されるエンターテインメントの世界でもある。「たそがれ精兵衛」には、その両面がうまく取り揃えられていて、見るものをけっして飽きさせないし、後に残る余韻もあった。
・そんな理由で満足したのだが、見ていて画面の暗さが気になった。江戸時代のろくに灯りもない室内は薄ぐらいに決まっているのだが、それをリアルに描きだしたのでは、映画を見ているものには画面がぼんやりしてしまって見ずらくなってしまう。特に立ちまわりのシーンでは大げさでなく、何がどうなっているのか今ひとつわかりにくかった。
・派手にわかりやすく撮ればリアルさが感じられなくなるが、リアリティにこだわれば、映画の世界そのものが成立しにくくなってしまう。しかも映画には、リアリティを出すために必要不可欠な嘘といったものもある。実はこのシーンは監督とカメラマンとのあいだで互いに譲れない相違点だったようだ。リアリティとエンターテインメント。映画に要求されるこの二面性の両立は、映画の初めから問われつづけている課題だが、100年たった今でも、やっぱり難しいことであることを再確認した。
P.S.
・BSで阪東妻三郎の『決闘高田馬場』を見た。日本のチャンバラ映画の原点のような作品だ。保存状態がよくなくて、画面には雨が降っていたし、音声も聞き取りにくかったが、おもしろくて夢中で見てしまった。ストーリーも、演技もマンガチックで100%エンターテインメント映画なのだが、阪妻演ずる「安兵衛」の心の機微はうまく描かれていると思った。決闘シーンは踊りのようで、斬りつけても、音もなければ血も出なかったが、迫力はかなりのもので、音も血もいらない気がした。嘘を前提にして描きだすリアリティと、嘘を排して作りだすリアリティ。「精兵衛」と「安兵衛」の違いは映画表現のむずかしさを教えてくれるが、もちろん、それは映画に限らないし、フィクションに限定されるものでもない。